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病院に友を見舞う

御堂筋画廊で支路遺さんの個展があった。久々にたなかひろこさん、センナヨオコさん、そして私の三人が誘い合って行くことになった。私はある人から支路遺さんの入院をチラリと聞いていた。画廊であったら3人で本人のお見舞いに行こうと思い、家を出る前に支路遺さんの自宅に電話して病院と病名を聞いた。

絵を見て著作を見て家族の人とも話して、画廊を出たところで2人に言った。
「実は・・(省略)今から3人でお見舞いに行こう」
事情を知っていた私と違い、2人は明らかに動揺した。2人共20年ぶりくらいの再会になる。昔と現実との距離を慌てて逆行し失った何かを再獲得する必要があったのだと思う。
難波御堂筋から西梅田まで3人で歩いた。住友病院についても二人は心の準備が出来かねていた。
「Bruxelles、先に行って私達が来ていることをまず知らせてきて。行っていいかどうか」
私は一人で病室に入った。
B「ひろ子さんもヨオコも一緒に来てる」
支「そうか、田中も来ているのか、二人を連れてきてくれ」

支「病気でもしなければ、会えなかったね。病気もいいもんだ」(たなかひろこ)
支「こうして三人に会えるんだったら、病気するのもいいなあ」(センナヨオコ)
志摩欣也が個人通信「DEKUNOBOU」7号、支路遺耕治追悼号を出したときの二人の追悼文からの抜粋である。二人ともこの日のことを書き、奇しくも同じ言葉を載せている。

支「死にそうになってそのまま入院した。こんなに元気なのは今日が初めてだ」
ーー薬で痛みきっていた彼しか知らない私には今までで一番元気そうな支路遺耕治だった、とセンナヨオコは書いている。ーー
ーー大変な病気のことを話すのですが、その日は元気そうだった、とたなかひろこも書いている。??
支路遺耕治は少しはしゃいで笑顔さへ見せた。
会社の人の見舞い人が来た。病室にも仕事の指示を仰ぐ電話がかかってきた。しかしそこには、昔の大阪の仲間たちだけが共有した思い出いっぱいの濃厚な時間がふわりと漂ったのだった。

一番古い友人の志摩欣也とたなかひろこは複雑な感情に身動きがとれず、葬儀には来なかった。最高幹部の一人となっていた支路遺は葬儀社の社葬で旅立った。部下に慕われていたのか泣いている人も多くいたが「疾走の終わり」の支路遺耕治を知る人はいくら見渡してもヨオコと私だけだった。
支路遺耕治の三人目の妻の連れ子(息子)が喪主をしていた。
「君をなくして、右腕を折られた思いだ。どうかこれからも、残されたご家族のこと、そして同じようにこれからの会社の行く末を見守ってください」と社長の挨拶があった。こうして支路遺耕治は二度死んだ。

同じく「DEKUNOBOU」追悼号に載せた私の文「支路遺耕治は二度死ぬ」は、編集の志摩の判断で前半2分の1が全部伏字のまま掲載された。私は支路遺から聞いたあることを書いた。それは後年支路遺が支路遺になるための決定的な幼児期の彼の記憶なのだが、編集の志摩は、編集者の立場から、掲載不可だと言った。どうやら支路遺はそのことを私にだけ言ったのだった。だからこそなを、それを書かねばならないと思った。支路遺の存在感の希薄さの根源と、心の痛みと悲しみがほとばしりでるような事実だ。志摩欣也とあきれるくらいに大喧嘩した。

参考資料(1)こちらの一番最後。こちらです。
参考資料(2)こちらです
参考資料(3)2002.8.7をご覧ください。こちらです
参考資料(4)こちらです
参考資料(5)下から10番目、こちらです
参考資料(6)志摩欣也の文、こちらです
参考資料(7)最初の妻、エリカ、こちらです
参考資料(8)こちらです
参考資料(9)こちらです
参考資料(10)作品目録など。こちらです
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Mort SHUMAN 「Le Lac Majeur」
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迫力のある人(7) 「いくらなんでも」

世間体を気にして、枠にはまってチマチマ生きないところがBさんの魅力だ。いつも爽快に吃驚させてくれる。でもその話を聞いた時は、事実は小説よりも奇なり、などと言うあらゆる表現を飛び越えていた。「ウッ」と言ったまま言葉も出ない。
Bさんが、自宅の近所のアパートに女を囲っていた、というのだ。
「女って、あの戸上正美?いくらなんでも、それはちょっと。何の目的で。何のために?何をしてたの?いつから?」
しかも、その女が、昨日、男と逃げたと言う。
「男って、佐竹友人?複雑ねえ。クックックックッ。無茶苦茶もここまでくるとクックックックッ、無茶苦茶すぎて感動するねクックックックッ・・今どんな気持ち?」
「そりゃ、面白くない。でも、・・可笑しい、自分が当事者でなければ、私も噴出しているかも・・、でも面白くない」
ミナミの「街」であった佐竹友人の出版記念会には、私も出席したばかりだった。佐竹友人を作家に育てたのは支路遺耕治だ。今回の本も他人の街社から出ている。・・
昨日のホヤホヤの話をBさんが始めた。
いつものように合鍵でアパートのドアを開けた。目に飛び込んできたのは,ベッドで寝ている男と女。Bさんは息をのんで立ち止まる。女が素っ裸でBさんに駆け寄る。
「Bさん、これにはちょっとワケが・・・」
「一体これは、どういうことなの。説明して」
ちょっとした口論。布団をかぶって寝たふりをしていた男が、ガバッと布団をめくり、起き上がる。
佐竹「それが、詩人の言う言葉かよ」男が開き直る。
Bさん「これが、詩人のすること?」
Bさんがノコノコ現場に踏み込まなければ、何事も無かったように過ぎ去ったことだっただろう。でも、こういう現場をBさんが見てしまった以上、ことは重大化せざるを得ない。戸上正美は結局佐竹友人と東京に出奔した。
「岡田さんの時のように刃傷沙汰にならなくてよかったね、まだしも。ただ、Bさん、相手がねえ。友達の女房を獲るのは、いくらなんでも。まずいのでは。そこは認めたくない」
Bさんが囲っていたのは、支路遺耕治の2番目の妻だった。何かの間違いであってほしい。しかも佐竹友人は、今は勢いのいい作家とは言え、支路遺耕治が多大な借金を背負ってまで面倒を見て育て上げた男だった。
「後味悪い話ね」
いつか支路遺耕治が言っていた話を思い出した。あいつは押しかけ女房なんだ。まあ正式に花嫁道具も持ってきてるし、籍にも入っているけれど。・・・?
今回支路遺耕治は友達と女房と男友達の3人に裏切られているわけだ。Bさんは囲っている女に逃げられただけだけれど。
「Bさん、Bさんは戸上正美の一体どこが好きだったの?この話はBさんの評判を悪くする。イメージが悪すぎる」
・・・・・・・・・・

それから約1年後、ひょんなことから、BさんとBさんの息子のS君、そして支路遺耕治と私の4人で宝塚ファミリーランドへ遊びに行ったことがある。4人とも何事も無かったように、そして4人とも戸上正美と佐竹友人のことは、もうすっかり忘れていた。・・
あの事件からしばらくしてBさんがついに真相を私に告げたのだった。
実は支路遺さんは心臓を病んで、半分以上死にかけていた。元気で要求の激しい戸上正美に、根を上げていた。そして友人のBさんに「あいつをなんとかしてくれ」と頼んだらしい。Bさんには義侠心がある。「なんとかしましょう」と一肌脱いで「女を囲った」のだった。美談だ。しかも大笑いするような美談ではないか。
ひょっとしてあの二人が出奔した夜、Bさんと支路遺さんはどこかで密かに会って乾杯をしていたのではないかと、私は思っている。
事実は小説を飛び越えて宙返りしてさらになお奇なり、だ。
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「En rouge et noir」 par Jeanne Mas

隠れサッフォーの店(2)

薫「Bちゃん、久しぶり、今日は珍しく一人じゃない」
Br「薫さん紹介するね。こちらBさん。大阪で『ふらん』をやってる人」
B「腐乱死体の『ふらん』です」
Br「薫さんは『文学塹壕』や『崖』に書いているひと。神戸なら何にでも知り合いがいる。薫さん、今日は満員ね、カウンターにずらり」
薫「Bちゃんからお噂はかねがね伺っております」

私から見ればBさんも薫さんも、ずっと大人だ。二人ともB29の空襲を体験している。

B「神戸といえば、バイキング君本昌久さんと、ちょっとした誤解で、気まずい出会いのままになっている」
Br「じゃあ、あとで君本さんをここに呼んで仲直りすればいい、ね」

Bさんは何でも言うことを聞いてくれる。今日も三宮の知り合いの店に行こうと言ったら、即OKで一緒に来てくれた。
Bさんがトイレに立つ。Bさんがトイレの中に消えると同時に、カウンターの視線が私に集中した。その視線を代表して、薫さんが私に顔を近づけて聞く。
薫「Bちゃん、あの人今、恋人いるの?」
店中のお客が、息を潜めて私の回答を待っている。ちょっと焦る。
Br「あの人? ああ、いるよ」
薫「あの人の相手って、一体どんな人?」
Br「こんな人」(人差し指を自分の鼻に近づける)
すると、見知らぬ客が一斉にグフフと苦笑した。薫さんも笑っている。
薫「冗談じゃなくて、本当のこと言って」
Br「だから本当のことだって」
客がまた一斉に笑う。
Br「なんて失礼な人たちなの。みなさん。もう。失礼じゃないですか」
立ち上がって抗議する。そこへBさんが戻ってきた。
B「どうしたの?何を怒っているの?」
Br「あのね、Bさんに恋人いるかって薫さんが聞くから、いるよ、ここにって言ったら、店中の人が笑うんだもの」
B「それで怒ってるの?」
Bさんは私の後ろに回って両手で私の肩を軽く押えた。座る。
Br「Bさん。何とか言ってよ。Bさんが言わないと、この人たち信用しないんだから」
B「はい。はい。みなさん、あのね、私の恋人は、ここにいるこの人ですよ。間違いなく」
そして身体と顔を私の背中に押し付けた。

ウッソダーイ、という顔を貼り付けたまま、お客さんたちは不服そうに納得する。もう一度立ち上がる。
Br「ほ?らね。ほらみろ。それみろ。わかった?わかった?みなさん、わかりましたか?ほらね」・・

Bさんは場を読むときも、いつも私の気持ちに沿って演じてくれる。自由自在に私の歳の離れた姉になったり、ママ母になったり恋人になったりする。

君本さんが入ってきた。Bさんの横に座る。5分もしないうちに誤解が解けて、薫さんと私も加わって4人で乾杯をした。
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Fascination(魅惑のワルツ)」par Jack Lantier

Gribouille再び

その会合では芦野さん、原田さんらと再会、須田さん、蓮見さん、そして川瀬さんとは、前から知っていたけれど初対面だった。
「何か歌え」と言われて、私一人なんと「黒いわし」をほんの少しフランス語で歌った。あの頃、歌えと言われれば、結構すぐに歌っていた。

次の日川瀬さんはフラメンコのショーやら、オルガン奏者のいるナイトクラブに案内してくれた。そこでは、オルガン奏者に伴奏してもらってアル・ジョンソンの「スワニー」を歌った。「スワニー」と「カラーに口紅」が子供の頃からの18番だ。・・・

今回の上京は東京に着いたとたん、心理的に胃を痛めるほど重く複雑なものだった。?東京にいるのに何故Gribouilleに連絡しないのか、何故会わないのかー自己矛盾に苦しんでいた。
私はある時期から、Gribouilleの元から去ろうと心に決めていた。自分はGribouilleに強く惹かれていた。・・・
「一生付き合えるような、100%信頼出来るような、何ものをも超えるような、そんな友人関係でいたい」とGribouilleは言った。私がフラフラと多くの人に会ったり、いろんな噂を流したり、彼女の目の前で、刺激したり不信を与えるような行動をとったりするので、いい加減信じられなくなっていたのだと、思う。
ベルギー人のRobertや京大の吉田城は、すでにGribouilleに引き合わせていた。
「東京でのあなたは理解できても、大阪でのあなたは、私にはわからない」Gribouilleが言った。
「All or Nothing。どちらかBruxellesが決めればいい」と言った。
「ALLなんか無理に決まっている。大阪の人間関係もあるし、家族もいるし、・・」即答した。
私はGribouilleの家の2階のアトリエで、二人きりでいる時間が大好きだった。彼女は必死に絵筆を動かしている。私はそれをじっと見ているだけだ。けれど、その時、その場こそが、本来自分がいるべき場所だと感じた。Another Selfと天国にいるような、不思議な充足感のある時の流れを感じることが出来た。あまりに幸福を感じたので「このまま死んでもいい」とタナトスに誘惑されかけたこともあった。
Allを選ばなかったのは、自分を見失わないためでもあった。「願わくば聡明に生きたまえ」嵯峨信之氏の一言は、何かを見抜いた言葉だったのだ。それにGribouilleにとっても、私が意味のある存在でい続けることなど、どう考えても不可能だった筈だ。
「Allなんか、無理に決まっている!」

それから私はGribouilleに嫌われることばかりした。Gribouilleの代わりに河口湖の別荘に行って、ハメを外したのもそのひとつだ。悪行はすぐGribouilleの耳に入った。
それでも「レコードを取りに来た」と言ってはGribouilleの家に行き「こんな家なんか2度と来るもんか!」と悪態をついて出てきた。全力でGribouilleを欺き徹底的に嫌われ、最後は激しく罵られて・・・。
ただどうしようもなく、その憎悪の塊のような言葉にさえ、私は喜び、快感さえ感じていた。

今回の上京は体調最悪、薬ばかり飲み続けた。川瀬さんが心配して東京駅まで見送ってくれた。なにか励ますように川瀬さんは私の背中を2度さすった。
Gribouilleと知り合ってから、Gribouilleに連絡を取らない、最初の上京になった。
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「Grenoble」 par Gribouille

父と息子(番外編)ー代打バトンタッチ

「海とユリ」の芦野氏から電話があった。
「帰省中北海道でBruxellesさんの作品を読んで感銘を受けて、東京で「海とユリ」を発見して、どうしても仲間に入りたいという人が現れた」ということだった。
「Bruxellesさんは覆面作家ですよ、と言っておきました」・・

Ryookoと3歳になったばかりのMieを乗せて、ドライブしていて溝に嵌った。梃子の原理を使ってタイヤを持ち上げようと、棒切れを探したが、何も見当たらない。風がビュービュー吹く農道。ポロポロと降り出した雨の中ウンウンと力を出したが動きそうにない。一旦車の中に戻った。
Ryooko「この子すごいね。3歳なのに状況が読めているのよ。タイヤのひとつが小さな川に落ちたのねって。溝のことを小さな川だって」
少し暗くなってきた。早く何とかしなければRyookoもMieも、もっと不安になるだろう。・・
結局1番近くの民家を求めて、雨の中を出てゆくことにした。電話をかけるためだ。
運良くその家の人が、村の青年団を呼んでくれて、車は彼らによって引き上げられた。何とかなって、本当によかった!!感謝!!

翌朝全身がガクガク震えて高熱が出て倒れた。どうしても布団から出られない。受話器にしがみついた。
「今日東京から川瀬さんという人が私に会いに来るんだけど、代打で行ってくれない?」RyookoにTELする。夕方からしか空いていないということだった。次はS老人にTEL。
「わかった了解。梅地下の噴水、11時だね」と引き受けてもらった。

夜Ryookoから弾んだ声で電話があった。
「すごく話が盛り上がって、今夜川瀬さんと一緒にホテルに泊まる」と言った。S老人とのバトンタッチもうまくいったようだ。・・・

結局川瀬さんと私が直接会ったのは1年半後、東京でだった。
川瀬「ニューと現れたのがおじいさんだったので、Bruxellesさんてこんなおじいさんだったのかってギョッとした。覆面作家ってこういうことだったのかって。でもあんまり作品とイメージが違ったし。Bruxellesさんに会いに行ってRyookoさんとS老人に知り合っただけだったけど、1年半後にこうしてようやく会えた」
その1年半の間に川瀬さんはRyookoやS老人とすっかり友達になっていた。川瀬さんは新宿の新築の高層マンションに一人で住んでいた。Ryookoが先にここに泊まりに来て「新宿のビル街に朝日が登る様子が窓から全部見えた」と言っていた。

「Bruxellesさんのためにレコードを買って、この日を待っていた」と川瀬さんが言った。
そして二人でメリー・ホプキンの「悲しき天使」を聞いた。
その日は「海とユリ」の合評会をこの家でしたのだった。みんなが帰って私は残った。♪Those were the days my friends・・・・・♪
(「悲しき天使」は川瀬さんが北海道で読んだ作品のいはばテーマ曲だ。注:「帰ろう愛の天使たち」の天使は「悲しき天使」の天使からきている)
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「Les jeux interdit 禁じられた遊び」par Francoise Hardy

父と息子(2)

どうもS老人は苦手だ。決して不快ではないのだが口が悪い。たとえば
「Bさんは、狼だ」「何故?」
「若い、いい男を見たらパクッといく」「・・・」
「Ryookoさんは、ドラ猫」「何故?」
「男と見たら、誰でもかまわず、ごろニャン」「・・・」
「川瀬さんはナフタリン」「何故?」
「虫も寄り付かん」「クックックックックッ、いくらなんでもそれはあまりに失礼な・・。そんなひどいことを言うなら、陰で私のことは、どう言ってるんですか?ムチャクチャでしょうね、クックックックッ」
「Bruxelles君は、あられ姫」「何故?」
「連休になったら、北や南から飛行機に乗って、男や女が、雨あられのように、会いに来る」
「あれっ、全然悪くないですね。そういうイメージあるんですか」

こういう会話の前か後か思い出せない。ある時電話がかかってきた。
「Bruxelles君の家に行こうと思って、バイクに乗って来たんだけれど、大和川付近で故障した。今、修理屋にいる」
「一人で乗ってきたんですか。危ないですよ」
「修理が終わったら、Bruxelles君の家の付近で食事しようか。出てきてくれないか?」「いいですよ」
何歳か知らないけれど、60歳は過ぎている筈だ。・・(省略)・・
「・・・Bruxelles君、うちの息子と結婚しないか」
「クックックックックッ、また突然になんですか。クックックックッ」
「俺とこだったら、掃除も洗濯も、料理もしなくていい」
「誰がするんですか?」
「俺と息子とズッと二人でやってきた。料理もうまい。Bruxelles君は、好きなことをしてればいい」
「う?ん。あのね、確かに勝一さんは男前で性格もいい人だけど、あの人のお父さんがねぇ。あのお父さんがネックですねぇ」
「ワシのことかい」
「クックックックッ、クックックックックッ、クックッお断りします」
「!!、、、、支路遺に聞けば、あいつは魚の大群のように、男がいっぱいいる、って言うし志摩に聞けば、あいつは女にしか興味ない、って言うし、一体どっちやねん」
「それ、誰の話ですか?」
「Bruxelles君、君の噂やないかいな!!」

「オヤジ涅槃で待つ」という言葉を残して男優の沖雅也が高層ビルから
飛び降りた。その後、全く何もかも似ていない養父の日影忠男が登場した。身も世もなく泣き崩れている。ドラマだなぁと思って見ていた。そしたら急に電話したくなってS老人にダイヤルした。
「どうした、珍しい。どういう風の吹き回し?」
「沖雅也が死んでフト思ったんですよ」「何を?」
「ひょっとしてSさん親子も同じような親子じゃないかって」
「ナ、ナ、ナ、ナ、何を言うんだ。冗談も休み休み言うもんだ。Bruxelles君はとんでもないことを考えつくね、、」
「あれぇ、そんなに怒るところを見ると、ますます怪しい。人間は核心を突かれると必ず怒るものですよ」
「年配者をからかうもんじゃない。本当に困った奴だ。なんて電話をしてくるんだ、全く。珍しく電話がかかってきたと思ったら、、」
  (つづく)
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「Apres Toi」 par Vicky Leandros
「Le temps des fleurs(悲しき天使)」を歌ったビッキーのフルネイムはVicky Leandrosと言うことがわかった。
「Apres Toi」は1972年英国Edinburghで行われたEurovisionコンテストでVickyがLuxembourg代表として出場し見事優勝した曲だ。こちらでその曲が聴ける。
「Le temps des fleurs」は20歳のとき死に向かっている私を、引き戻してくれた、私にとっては忘れられない大切な曲だ

父と息子

2004年4月9日の日記に「あるバーでAさんに、前からお互い名前だけを知っているBさんを紹介された」とある。このAさんとはS老人のことだ。そのS老人といつ何処で誰の紹介で出会ったのか、よく思い出せない。S老人はしばらくして「あすか」という詩誌を発行し始めた。

「Bruxelles君、琵琶湖へ海水浴に行こう」と誘われて、S老人の息子,勝一さんと、もう一人の4人で、琵琶湖へドライブしたことがある。
○○に会いに岐阜県へ行こう、××に会いに和歌山に行こう、三重県に行こう、花見に吉野山に行こう、京都へ行こう・・・思い出せば、S親子にたくさんドライブに連れて行ってもらって、沢山の人を紹介された。(紙田彰氏もその中の一人だ。紙田氏のサイトはこちら

3度目に会ったときに息子の勝一さんを紹介された。
「Sさんの息子さんにしては、男前過ぎますね」
お父さんと行動を共にする息子、というものが少し信じられなかった。身体もガッチリして、顔も整っていてそのままスクリーンで主役を張れそうな男性だった。それからたいていは親子セットで会うことが多かった。仲間の間でも、不良老人に孝行息子というイメージが次第に定着してきていた。あんなにお父さんのために尽くす息子はいない。
その頃勝一さんは電気会社のサラリーマンをしていた。三人で会っても、S老人と私が文学の話をするのを黙って聞いている。かといって自閉的ではなく、落ち着いて態度も堂々としている。歳は私とそんなに変わらない筈なのに、存在自体は遠くに感じる、私から見れば、ちょっと異質な人だった。

ポツリポツリとS老人は自分の話をする。別府で内装の会社をしていて、大阪に逃げてきたらしい。倒産したとき、別府の暴力団に、逃がしてもらったという話だった。S老人は医者の息子で何度も家出したり、自殺未遂をしたり、でも戦前から大阪で文学に関わってきたらしい。おまけにS老人は、私自身さへ全く知らない、大正時代の淀屋橋の天満屋を知っているということだった。

S老人と知り合って何年も経ってからだった。
B「次の約束があるので、これで失礼します」
S「誰かと会うの?」B「はい」
S「ワシも一緒について行ったらダメか?」
B「別にいいですよ。どうぞ」
S老人は私についてきて、次の喫茶店で待っていたSKと出会った。S老人とSKは瞬間に意気投合・・・。
「Bruxelles君、なんでこんなおもろいやつ、もっと早く紹介してくれへんのや」・・SKとS老人はその後頻繁に会い、お互いの友達も、紹介しあうようになっていった。

堺市の「海人の館」というお店でクリスマスパーティーをした。私の生徒の府立大生二人、女子高生3人、レブロンの美容部員一人、SK,私、SKの友達二人、S親子が揃った。そのとき「星影のワルツ」を歌った勝一さんは珍しく泥酔、倒れこんでしまった。SKとS老人と私の三人で私の車に勝一さんを押し込み、彼らの高槻の自宅まで運んだ。重くて重くて三人でウンウンいいながら,勝一さんを溝に落っことしながら、家の中まで運んだ。よい息子でない勝一さんの姿を初めて見た。なにかいつもいつも必死に耐えてきたため、箍が突然アルコールで緩んだのだ。そう感じた。     (つづく)

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Marie Myriam 「L'oiseau et l'enfant」

 この曲はロンドンで行われた1977年度Eurovison contestの優勝曲。France代表で出場したこの人はポルトガル生まれ。
こちらのサイトでこの曲を含めユーロヴィジョン優勝曲全部を聴ける。
この曲なら1977年の右側のラッパのマークをクリックすると聞ける。
そのサイトはこちら

代表取締役

今までそのほかの日々に何度か登場したSKの噂を聞いた。SKとは4,5年会っていない。SKの言っている言葉に正確さがなくなり、目つきがおかしくなり、話の内容にショックを受けることが多くなったからだ。その頃SKはまだ元気に会社を経営していた。人脈と人望を持っていたから仕事は回っていたのだろう。この人はどうなったんだろうと、いつも深いショックを受けていたが、それは私の過剰反応だと思っていた。

会うとSKは仕事のアイデアを話すのだが、それは中学生が考えてもおかしいと思えるものだった。
「Tシャツにコカコーラのマークをつけて、1000円で売る。凄いアイデアだろう」
「ああ、タイアップして、コカコーラに制作費を負担してもらうの?」
「いいや、コカコーラの商標を少しお金を払って使わせてもらう」
「そのタダのようなTシャツを、どうやって1000円で売るの?」
「売れないと思う?」

「従業員に社会保険を掛けなければ、会社の出費が減る。高齢者を形式的に雇ったことにすれば、国から補助金が出る」???!!!

「資金繰りの凄い方法を考えた」「どんな」
「年賀状を500枚書いてる。その一人一人に10000円づつ出してもらえば500万集まる」「事業ビジョンもないのに、知り合いだというだけで、誰も10000円も出資しないでしょう」「10000円くらいなら、僕個人に投資してくれるでしょう、みんな」「その500万円で何をするの?」「それは後から考える」

笑ってはいけない。もうそのとき少し壊れ始めていたのだろう。会っても不快になるだけなので、次第に会わなくなっていった。

2年位してSKが倒れたという噂を聞いた。病院に駆け込んだら即手術。ペースメーカーを入れたらしい。ペースメーカーを入れると身体障害者手帳が与えられるらしい。驚いた。病気ひとつしたことのないSKが。

その1年後に倒産したという噂を聞いた。逃げている、ということだった。あれでは、従業員は誰一人ついて来ないだろう。

さらに1年後離婚して生活保護を受けているという噂を聞いた。

そして3日前、電車の中で偶然SKに会ったという共通の知り合いから電話があった。
「もうすっかり顔の相が変わっていて誰だかわからなかった。不気味だった。向こうから話しかけてきた」

たった3年間でこれだけの不幸が重なると、誰でも顔の相が変わるだろう。SKがこの不幸を回避する方法はなかったのだろうか?おかしいと思い始めた7,8年前に何らかの手を打てば、違う道を歩めたのだろうか。
バブル崩壊後の縮小経済の波をまともに受けて、時代に対応しきれなくなった多くの日本の小企業の一人の代表取締役の、典型的な姿なのだろうか?

昔々愛嬌たっぷりな顔で、ギャグを連発し、いつも笑っていたSKはもういない。
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Avec Le Temps」 par Isabelle Boulay

嵯峨信之(前回の続き)

昨日あわてて書いた日記で嵯峨信之の之を信行と書いてしまったのが気になって本棚から、古い「詩学」を引っ張り出して確認した。今日訂正しておいた。草野しんぺいも、草野心平に訂正する。間違ったままにするとリンクをたどっても出ない。出てきたのは昭和42年の8月号。研究会作品合評の出席者は栗田勇鍵谷幸信石原吉郎笹原常与、嵯峨信之の5名。いつか「堕天使達の呟き」で話題になった鍵谷幸信氏、ジャズ評論のみならず確かにこうして詩の合評も既にされている。
この頃私は栗田勇氏の「アントニオ・ガウディー論」を熱心に読んだ記憶がある。確か「知的復権のために」という濃いグリーンのカヴァーの本もあった。私の「2N世代」の表紙はこのグリーンをいただいて、たなかひろこさんに必死に素材を探してもらったのを覚えている。この後栗田氏は「愛奴物語」を執筆、それは映画化された。その後は、ロートレアモンの「マルドロールの歌」を訳出された。
栗田氏以外で日本人の評論に感銘を受けたのは大久保喬樹氏の「ジャックソン・ポロック論」そして「ルネ・マグリット論」ともに大感激だった。大久保喬樹氏の登場によって、美術評論という分野が、面白さという点で文学小説を超えたと思った。大久保氏はまだ東京大学に在籍する学生だった。(岡倉天心の解説で後年TV出演されているのを見た。東工大の仏文の教授に確かなられていたと思う。)その後高階秀爾氏、東野芳名氏、中原祐介氏らの美術評論、フランス人が書いた詩論(たとえば、バシュラールの「空間の詩学」)丹下健三磯崎新黒川記章氏らの建築論、他には現代音楽論(クセナキス等)やジャズ評論などを、本当にワクワクと読み漁った。ケイジデュシャンの存在に出会ったのも多分この頃だと思う。当時詩の実作はストップしていた。嵯峨氏のご指摘にあるように、私は大阪にいながら、支路井耕治が時代の寵児でNHKのドキュメンタリーにまでスター的に登場していた頃はまだ「他人の街」も支路井耕治の存在も知らなかった。

支路井耕治の存在を私に知らせたのは、ちょうどその頃リトルマガジン詩劇「グルッペ」を創刊した「短詩」の同人木村太郎氏、そして実際に引き合わせたのは、後に私の詩集「2N世代」の装丁を引き受けてくれたたなかひろこ氏だった。


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「Je suis grecque」  Melina Mercouri

村岡空

昔からの友人の瀬崎祐氏が最近「詩と思想」で詩集評を書いているので阿倍野橋のユーゴ書店に立ち寄ってみた。売り切れてしまったのか、「詩と思想」は見当たらない。仕方なく「詩学」の9月号を手にとって吃驚した。?村岡空追悼号ーとなっている。村岡氏には友人の出版記念会などで、4,5回東京で会っている。とにかく何の垣根もなくものすごく身近なおじさんという感じで接することのできる方だった。お顔もとても愛嬌がある。一度「出張で大阪に行くので、どこか食べ物のおいしいところを案内して」と唐突に電話がかかってきたことがあった。それまであんまり直接話したことはなかった。ただ私が出た座談会の司会は、そういえば村岡空氏だったような気がする。キタのどこかで待ち合わせて、食事した。どこで何を食べたのか、全く思い出せない。ホテルにお送りしますと言って、送っていったらそこは、法華クラブ、だった。そうだった、村岡さんは、お坊さんだったのだとふと思い出した。
その何年か後、奈良県の東吉野村に東京から引っ越した、という通知が来た。で、何度か車でそのお寺まで行こうとした記憶はあるのだけれど、行った記憶はない。そしていかないまま、長年連絡も途絶えていた。享年70歳。追悼号の「詩学」に村岡氏の生涯について、何人かの方が触れられていた。やはり物凄い人生のようだった。密教の研究家だということは知っていた。が直に詩作品は読んでいない。

詩学」といえば昔、嵯峨信之氏に草野心平の女性がしている居酒屋「学校」に連れて行っていただいたことがある。詩集「2N世代」に関しては自筆の激励文のお手紙をいただいた。「嵯峨さんは、めったにそんな手紙は書かない人だから、それは大事にするように」と「詩学」社の人に言われた。今も大事にアルバムに張ってある。「君は大阪の人なのに(彼の影響を受けずに)饒舌体の詩を書かないね。オーソドックスなのがとてもいい」といわれた。最後に、願わくば聡明に生きたまえ、とあった。ちなみにこの彼とは、支路井耕治のことである。

嵯峨氏も村岡氏もその支路井耕治も、みんなもういない。


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「Non,je ne regrette rien (水に流して)」 Edith Piaf

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2017-06

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