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Digital Divide

数ヶ月前にSKから「紙芝居屋になりました」というメイルが入っていた。私はメイルにも必ず返事を返すのだが、SKに関しては、もう10年ほど前からCommunicationは困難だと、それを忘れてはいけないと心していたので、返事は書かなかった。第一「紙芝居屋になりました」に対して、どう返事をしてよいやら分からなかった。
2005年9月14日 そのほかの日々(2) 
SKに関する私の最後の記事だ。
・・・・・・・・・・・・・

「Bちゃんは電話嫌いだから、どうしようか迷ったけど、見てもらいたいからやっぱり電話した。僕ね、紙芝居屋になったんだけど、今You Tubeに出てる。紙芝居屋さんで見れるよ。You Tube知ってるでしょ?」
「紙芝居屋さんで見るのね」
「違った。ビデオ屋さんで、見れる。僕が出てるんだ」
ここで昔のSKと同じの大笑い。嬉しいのだろうか。
これは先の連休中にSKからかかってきた電話だ。
「見てみる。でもビデオ屋さんで、入れてもゴマンとでてくる。他に何かキーワードは?」
「ビデオ屋さんでいい。それで、出るよ。ただし、You Tubeは英語しか駄目だから、英語でね。英語でビデオ屋さんと入れないと出てこない。わかった?」
「You Tubeは日本の動画は日本語で調べないと出てこないけど」
「いや、英語で、ビデオ屋さん。それで出る。皆もそれで見れるって言ってたし。英語で、ビデオ屋さん、これで必ず僕のが出るから」
「分かった、早速みてみるわね」
SKがまた楽しそうに嬉しそうに不自然に大声で笑っている。でも私はそれだけ言って一方的に電話を切った。これ以上話しても会話が通じなくてショックを受けるだけだ。もうそれはご免だ。痛々しく感じてしまう。
でも切った後で思った。倒産や離婚や手術やらを乗り越えて元気でYou Tubeに出ているところを、どうしても私に見せたいSKの気持ちがわからないでもない。SKの感覚では、紙芝居屋さんでYou Tubeに出ていることは、言ってみれば、舞台に上がってセリフを言っている劇団員の感覚なのだろう、つまりは晴れ舞台。あんなに嬉しそうに笑っていたではないか。私は出ないと分かってはいたが、ビデオ屋さんを英語に直してYou Tubeの検索をした。そして、やはりまたしても最後は自分自身で馬鹿馬鹿しくなってしまった。
SKの話が、もたもたして一向にまとまりがないと気づいてから、考えてみれば10年以上になる。それにしては、ちゃんと紙芝居屋さんをしているのだから、世間的には「おかしい」とは決して思われてはいないのだ。私の考えすぎかもしれない。私が何か自分で方法を考えて、You Tubeを見ればいい、だけの話だ。つまりは後は、私の方の自己責任。
それっきりそのことは忘れてしまったが、翌朝目覚めてフト気づいた。(心に自己責任の文字がちらついておそらく無意識にずっと考えていたのだろう)わかった!昔の田舎の年寄りなどはローマ字、つまりアルファベットを英語と言っていた。SKはYou Tubeは英語で入れないと出ないと、断言していた。SKはアドレスのことを言っているのだ!そして同時にアドレスと検索キーワードを混同しているのだ。アドレスを英語で入れると、「ビデオ屋さん」というタイトルで彼のYou Tubeが動き出すのだろう。ようやくモヤモヤが晴れた気がした。しかしSKはそこまでアホか?ちょっといくらなんでも失礼ではないか?いや、これがDigital Divideなのだろう。アホと言うわけではない。
そう言えば、昔からの友人のHMも、ネット・カッフェとパチンコ屋をほとんど同一視して話すではないか?YSだって、インターネット=ビデオ・ゲイムとしてしか認識できていないではないか。インターネット=ブログとして捉えている人も大勢いる。ショックを受けるべきではない。ちょっとしたDigital Divideの一例に過ぎないと考えよう。

ただSKがまだ頭の回転もよく皆を大笑いさせていた頃、どうもスペインとイタリアの区別が出来ていないのではないかとその口ぶりから気づいて、それとなく確認したことがある。やっぱりその時その時点ではSKの頭の中ではスペインとイタリアは区別されていなかった。そんなことがあったっけ。そういえばTTだって、イランとイラクの区別が分からなかったし、昨日読んだ今月号の「正論」では、あの中谷厳大先生が、その著作にルーズベルトが戦後も政権を担っていたと言う風に書いてある、という指摘があった。今朝のTVでは司会の関口宏が、金正日にだけ敬語を使っていたし。日常生活においては、Digital Divide以前に、知の確認など一切されずに、ほとんどあらゆる会話は発言は、なされているのだと、そしてその事態をそのまま受け入れた方が、もはやマナーに合っているのかも知れない。それに論理性や事実確認の前提などを全く無視して「××じゃないですか」と一方的思いの強権的押し付けが、TVやラジオ、また現実生活のここかしこに、溢れている。「かもしれない、じゃなく、それこそがマナーじゃないですか」と叱り飛ばされそうなので、この辺で止めて置く。
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羽田を発つ前に

最近早起きの練習をしている。そのせいか先週の日曜日は夜9時半からラジオを手にすでにウトウト。はっと目を開けると懐かしい声が聞こえてきた。何時だろう?
.......

南回りのオープンの切符を持っていた。空港に行く前に昭和女子大に向かう。ここは数日前Barbaraが公演をした人見記念講堂がある筈だ。
すでに原稿は出版社の手に渡っている。在仏中にそれは出版されることになっている。別の出版社から連作が一気に出ること、しかもある賞の受賞も決まっていたが、オイルショック、紙の高騰で流れた。出版社と打ち合わせも数回したし、ある程度のレイアウトも決まっていたのだが。
でも私の連作の一部が昭和史の証言という3冊セット本の第一巻の中に掲載されることが直前に決まった。昭和史の中の戦後という時代を生きた青春の記録のひとつとして。

B「ここが先生のお部屋ですか」
O「女子大はね、こんなことをするんだよ」
ドアのすりガラスの真ん中が丸く透明で、部屋の中が丸見えなのだ。立教大の大場助教授事件のせいだろうか。
そこへ女子大生達が2,3人、軽井沢のお土産を持って、部屋に入ってきた。
O「この人はね、素晴らしい作品を書く人だよ。Bruxellesさんです」
O先生が御自分の学生達に私をそう紹介してくださってビックリ。女子大生達は私を熱い憧れの瞳で見つめる。
O「今から単身Parisに出発する、その挨拶に来られたんだよ。もうすぐ作品が出版される。君達もこの人からいろいろ学びなさい」
女子大生達の瞳の熱気がさらに上昇する。

O「このまままっすぐ、羽田に行くのかい?」
B「はい。いい取材をしてきます。何もかも未定ですけどね。」
O先生は、校門より少し外、歩道橋の近くまで見送って下さった。

羽田に着いたら、搭乗口のドアが閉まって飛行機が動きかけていた。ドッと冷や汗が出る。大声を出しドアをたたいた。
これからBruxellesまで、砂漠の上を飛んで、30数時間もかかるのだ。

仕事、人間関係、やりかけていたこと、すべてにピリオドを打ってX軸もY軸もゼロの心境だった。もう関係は破綻していたけれど、それでも前日Gribouilleに会いに行った。
G「これを持って行きなよ」
Gは引き出しから、ある物を取り出し、それをくれた。
B「要らない」 G「要るかもしれない」
B「必要ない」 G「必要があるかもしれない」
Gが何故引き出しに、こんなものを持っていたのだろうか?何かの冗談に違いない。

夕方、まず香港に着いた。長い旅が始まる。
...............

明日24日の日曜日、NHKラジオ第2放送で午後10時20分から11時まで、先週の続きの放送がある。タイトルは「私の日本語辞典ー花と言葉の文化史(4)」
その放送に「帰ろう愛の天使達」を、社会思想社刊、昭和史の証言(青春の記録ー1)の中に編纂して下さった文芸評論家、小川和佑氏が出演される。

行きつく場所まで歩いた人

ユリイカの「シャンソン特集」1982年5月号を見ていたら、諏訪優氏の詩作品「カーニバルの夜」が掲載されていた。最後にVenis,1982,2,21とあるから旅先で書いた作品のようだ。

ひとつの思い出が蘇ってきた。あまり昔なので何年だったかは思い出せない。私はヨオコさんと二人でその時諏訪優氏の自宅にいた。何区だっかた思い出せない。同い年くらいの仲のよさそうな奥様がいらっしゃった。にこやかに4人で話した記憶はあるのだが、内容は全く憶えていない。なのに何故思い出したかと言うと、その奥様がお昼ご飯に手料理の「カツ丼」を出してくださったのだ。
支路遺さんや志摩さんの関係から横に広がっていったものだと思われる。
諏訪優氏はアレン・ギンズバーグを日本に紹介した方だと言うのが私の印象として残っている。まず支路遺さんの「他人の街」に紹介され志摩さんの「凶地街」ではギンズバーグ特集が組まれた。そのころともかくギンズバーグは、少なくとも詩に関わる者にとっては、圧倒的な人気があった。美術でいえば、アンディー・ウォーホールに匹敵するほどの人気だった。諏訪さんはどこかの大学で教鞭をとっておられた。勿論ビート・ジェネレーションのアメリカ文学。ヨオコも私も詩を書く以外たいして何もしていない。ただこうしてフラリと東京に来ても、会う人、会う必要のある人は当時一杯いた。

それから何年かたってすっかり皆の生活が変化した頃、諏訪さんがあの奥様と別れてずっと若い女子大生と再婚されたと言う話を風の便りに聞いた。「えぇっ!」信じられなかった。あれだけ仲の良さそうなご夫婦だったのに。何か全然違う風が、その時みんなに吹いたのだろう。それからさらに数年経って、諏訪優氏が亡くなったという話も聞こえてきた。「えぇっ!」

「カーニバルの夜」の副題にーあつみにーとある。あつみ、と言うのは若い妻の名前なのだろうか。1982年から一体何年経って諏訪優氏は亡くなられたのだろうか。

生まれる前の混沌にかえって
さわいでみようか? わたしたち
血のような酒をあおって 抱き合って
迷宮の島
行きつく場所まで歩いてみようか
    ?「カーニバルの夜」ー抜粋

ある年の1月4日 など

5日の朝、早々にW法律事務所の若手弁護士の一人が事務所にやって来て言った。
「昨日TVに映ってましたね。」
「私? 何テレビですか?」
「NHKのお昼のNewsに、大江橋を渡っているところをずーっと。シニカルに微笑んでましたよ」
1月4日,髪を結って着物を着て会社に向かっていたら、重いカメラを抱えた人が私に張り付いて、ずーっとついて来るから、そう言えば、カメラをジロリと見てニタッと笑ったのだった。まさか放映されるとは思わなかった。

せっかく着物を着ているのだからと、お昼からは東区の森田君の家に新年のあいさつに出かけた。当時私にはスリランカ人の日本語の生徒がいた。その人の「面倒を少し見てもらおう」とライオンズクラブ会長の森田君のお父さんに以前会いに行ったことがある。
森田君の家は天神祭りの船が窓の下を通る、川沿いのビルだ。橋本君の話によると東区の長者番付の3位なのだそうだ。森田君は将来お父さんの後を継ぐ為に大手前高校からストレートで経済学部に入ったのに、どうしても工学部に進みたくて、翌年受験をやり直した、すごい子だ。考えるだけでもしんどい。精神力がよほど強いのだろう。学生時代の仲間のリーダー格だった。
突然行ったけれど、正装をしていたためか、お客さんの仲間に入れてもらい、ご馳走になり、楽しいひと時を過ごした。
「Bruxellesさん、アジア人はね、日本人の援助を当然のことと思っている、ボッタクリ的留学生が多いんですよ。相手がそれじゃ、国際交流にならない、そういう経験をたくさんしてきたから」
「本人によく説明をしておきました」
お客のなかに一人青い目の学生がいた。

夕方になって、今度はTTが待っている新地のインタープレイ8に出かけた。珍しく着物を着ていたのでTTはとても喜んでくれて、私の写真をパチパチ撮った。このころのインタープレイ8はライブと言えば山下洋輔だ。だからその夜も山下洋輔だったのだと思う。
あのころ元気だったハチのママも、海坊主のようなママの情人ももうとっくに亡くなったらしい。
このころの写真が1枚だけ今も残っている。飲み屋の看板ばかりが背景のハチの前に立って、アルコールのせいで顔を赤らめている私は、着物を着ているせいか、どうみてもホステスにしか見えない。
だから「こんな写真、めったに人に見せるでない」と言ったのはコンサルタントの姫神さんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
TTがハチで切符を買って、私を連れて行ってくれたJazz Concertの中で特に二つは記憶に強く残っている。
ひとつは山下洋輔トリオ、大ホールだった。器械体操のようにドラムをたたく森山さん、そしてサックスの坂田さん、Free Jazzの先端というより狂気に近かった山下さんー、正直、音の洪水で完全に聴覚が麻痺してしまった。
もうひとつはマイルス・デイビスだ。フェスティバルホール。ただただカッコよかった全盛期のマイルス・デイビスを見て聴けたこと、今となっては日に日に貴重に思えるばかりだ。

Bruxelles親友を失くす(2)

Ryookoが自宅のマンションでクリスマスパーティーを開いたことがあった。その時姫神さんはやって来た。(すぐに帰ったけれど)
私が車の免許を取り車を買った後ドライブに誘ったらOKしてくれた。
SKの詩集「おいしい恋の作り方」(コピーライターらしいタイトルだ)の出版記念会でシンセサイザーを演奏するのだと言った時も会場まで聴きに来てくれた。だから彼女は急激に消えたわけではない。

彼女の会社まで出かけて話を聞くことにした。
B「理由を言ってほしい。何かあったの?」
姫「好きな人が出来た。一度あってほしい」
意外な答えが返ってきた。三人で会った。
以前から顔を知っている彼女の同僚だった。あっけらかんとしている。恋する男と女にはどうしても見えなかった。だから私はどう話していいのかわからない。男性のほうがむしろ私に質問してきた。

B「どう考えても姫神さんが恋するお相手のようにはみえないんだけど。高倉健にも似ていないし文太にも似ていないし・・」
姫「あの人ね、結婚してるの」
B「えぇ!あの人は友達としか思ってないんじゃない?そんな感じだったけど。どんな話をしているの、二人で会うと」
姫「いつもね『結婚ていいよ』『はやく結婚したほうがいいよ』って言うの」
B「クックックッ。それじゃ、はじめから恋愛関係成り立ってないんじゃないの?彼に恋するあなたに、あまりにも失礼な発言じゃないの」
姫「家に遊びにおいで。目の前でイチャイチャして早く結婚する気にさせてあげる、って」
B「なんじゃらほい。そもそもこの話、おかしい。クックックッ」
結婚しても子供はほしくない、と20歳前から言っていた。出張ばかりして家にいない男を選んで結婚する、と23歳の時に言っていた。彼女があの目玉ちゃんに恋してるとは、考えられない。
B「あのね、姫神さん、あの人のこと本当に好きなの?そもそも別に好きな人がいてあの人に相談に乗ってもらってるだけじゃないの。紹介するなら、ちゃんと本命を紹介してよ」
/////////////

DAMIA 「Le Grand FRISE」

Bruxelles親友を失くす

Parisから帰国して、収集してきたシャンソンのテイプや、声の日記、写真や絵葉書で作ったパネルなどがそろったところで、友達に見てもらおう聞いてもらおうと自宅で小さなPartyを開いた。一人二人と集まり始めたころ、電話が鳴った。

姫神「ちょっと出てきてくれない。近くまで来てる」
B「出てきてって。もう、人が来てるし、私が出て行くわけにはいかない。近くまで来てるんだったら、姫神さんも早く来てよ」
姫神「今日は行かない」 B「えェッ!」
姫神さんが待つ近くの喫茶店に飛んでいった。
B「ここまで来てるのに、どうしてPartyに来ないの?」
姫神「あのね、Bruxellesちゃん、私のことを死んだと思ってくれない?」
声はしっかりしていたが、頬が震えていた。ただ事ではない。
B「死んだと思えって、目の前で生きている人を死んだなんて思えるわけがない。どうしたの?」
姫神「別に何もない。ただ、今まで通りの私はいないと思ってほしい」
B「う?ん。Parisに来た手紙に書いてたでしょう。これからもBruxellesちゃんのために、自分の半分だけは残しておいてあげるって。半分になってもいいから、残しておいてくれないの?何か気に入らないことがあったら、そう言って。なるべく聞き入れるから。はやくPartyに行こうよ」
姫神さんは首を横に振って帰ろうとする。
前に会ったのはいつだったんだろう。彼女は会社を休んでわざわざ羽田まで出迎えに来てくれた。東京で常宿にしている神田のホテルに一緒に泊まった。Parisであったことをいろいろ話した。KKがチューリッヒから会いに来たこと、BruxellesでRoseに出会ったこと、ABDIのこと、SABINEのこと、Marcelのこと、日本人の陽子さん。イスラエル人とアウトバーンに乗ったこと、フランクフルトのこと、ザルツブルクのことなどなど。
ミュンヘンで買った毛の長い冬物のコートもお土産にあげた。私が着て帰ったのと、お揃いだ。あっ、私はセミロング、彼女はショートだった。それがいけなかったのか?彼女は新幹線で先に大阪に帰った。私は4,5日東京に残った。ひょっとして、それがいけなかったのか?
いずれにせよ、友情にひびが入るほどの、たいしたことではない。

私は自分のほとんどを、彼女に話し彼女に委ね彼女に支えてもらっていた。彼女は100%の友情と愛情で真剣に話を聞き、考え、アドヴァイスしてくれた。彼女のアドヴァイスは常に感心するほど冷静で的確だった。
Parisに行く時期の相談もしたし、帰る時期の相談もした。預金通帳も、万一のために印鑑と一緒に彼女に預けて行った。

「Bruxellesが留守の間に彼女の身に何かあったのではないか」ー第三者はそう言った。
「いつも親友だと紹介せずに、コンサルタントだと紹介していた。それがいけなかったのではないか」?第三者はそう言った。
「どうしても許せない何か一言を彼女に言ってしまったのではないか」?第三者はそう言った。
「彼女の大切な人を知らずに奪ったのではないか」?第三者はそう言った。

誤解を解けばいいことだ。話し合えば必ず、たとえかたちは変わっても修復できるに違いない。彼女もたまには甘えたくなったに違いない。
100%譲歩してでも、修復に全力を尽くそうと思った。彼女と私の友情が壊れることなど、あり得ないのだから。
///////////////////

「Tout s'en va deja ( sur le canon de Pachelbel)」
  Alain BARRIERE

天性のリズム感

ヴァンセンヌの森の入り口付近に高級住宅街がありその前に公園があった。そこでカメルーン人のPaulと、イラン人のABDIと日本人の私の三人でボール遊びをしたことがあった。
そのときのPaulの動きに私は目を見張った。豹のような敏捷さ、身体全体から楽譜があたかも躍り出ているようなリズム感。人間のイメージを超えていると思った。
もし同じ条件で、黒人がトレーニングを積んでオリンピックに出たら、黒人がすべての金メダルをとるだろう、と言う言葉を聞いたことがある。それを実感した。
ある種の音楽もそうだ。ソウル、ジャズ、ブルース。彼らには天性の素晴らしい資質がある。血の中の歴史。

少し前の日記に登場する谷田君。かれはブルースが好きで「ブルースは背中の瘤みたいなものだ」と以前に言った。何のことかよくわからなかった。彼の影響でせっせとブルースを聴いた時期もあったが、やはり私には、肉体の奥まで入ってこない。でも「ブルースを聞く女」ってカッコいいだろうなって思ったりもした。

私がミズリー州のHal AviationでPILOTのTrainingを受けているとき、以前NEW YORKで知り合ったMR.BROWNが飛行機に乗って私に会いに来た。HOTELの部屋で食事をしたが、久しぶりなのでどんな話をしていいかよくわからない。間を持たせるために彼が持参したカセットテイプをデッキに入れた。ブルースだった。
食事をしながら、微笑みながらブルースを一緒に聞いた。聞いているうちにいたたまれなくなった。黒人の流した涙が、私の身体に注がれてくるのだ。それは、まるで悲しみの塊だった。食事が喉を通らなくなるほどの。背中の瘤であろうと、何であろうと、ブルースは日本で聞くものだ、黒人と一緒にブルースを聞くと、耐え切れなくなってしまうものだとその時初めて思った。あれは一体何だったのだろう、何なのだろう?
「バカンスの行き先をたまたまここにしただけだから、ここに会いにきたことを君が負担に感じることはないんだよ」MR.BROWNは気を使ってそう言ってくれたのだけど、私の心には「黒人と一緒にブルースを聞いてはいけない」と言う教訓を残しただけのひと時になってしまった。
私は2度とMr.Brownとは会わなかった。「もう帰る」とTELがかかってきたときも、見送りにさへ行かなかった。さすがの温厚な彼も、怒り心頭に達して「Son of a bitch」と電話の向こうで叫んだ。
飛行学校の事務所の人が吃驚してこっちを見た。私は苦笑いをして溜息をついた。「I am sorry」
「I am sorry だって。そんな言葉は今までさんざん聞いてきたさ。もう聞きたくない言葉だ」怒りに満ちた声が私の耳に届いた。
どうしようもない。女に対しても「Daughter of a bitch」とはいわないのだと、妙な事にだけ、気をとられた。

///////////////////

Andre Claveau 「Mon coeur est un violon」

デイトレイプ

市大病院と養護学校で一緒だったNNちゃんがいきなり家にやって来た。離婚したと言う。何度も離婚調停の場でいやな思いをしたのだと言う。なにより自分の両親に強く反対されて孤立無援だったと言った。原因は夫の酒乱。東京で劇団員をしている時、アルバイト先のピザ屋で知り合った青年だ。好き合って結婚したのではなかったか?NNちゃんはそれを強姦だと言った。

酔った男を車で送って部屋に上がった。お茶でも飲んでいけ、と言われて。男の生理を知らなさ過ぎた。ボタンの飛んだブラウスを着て、破れたスカートのまま、靴も履かずに泣いて部屋を飛び出した。タクシーで家に帰った。彼女は19才、彼は21歳。すぐに妊娠に気づく。「責任を取ってもらった」と言う形で、子供をつれ夫となった人と大阪の実家に帰った。彼は料亭で板前の修業を始めた。
彼にしても、思っても望んでもいない人生だったかもしれない。妻の実家の居候となり、若い鬱屈した気持ちをお酒で忘れようとしたのだろう。よその店で暴れては、妻のNNちゃんがお詫びと弁償に走り回るようになった。

友達や仲間や恋人だと思っている相手に、強姦されるデイトレイプ。それが果たしてレイプなのかと不思議に思うが、被害者女性の心には深い傷が残る。

何年かして、好きな人ができたので会ってほしいと言ってきた。居酒屋の若い主人だ。まだかわいいと言う感じのする少年のような人だ。それで子供が三人いて、妻と妻の母と六人家族で暮らしている。
「NNちゃん、それじゃ何の見通しもないね」と言ったら、それがいいのだと言う。彼は男を感じさせない、それに彼はNNちゃんにこれから先も何の興味も持ちそうにもなかった。別にNNちゃんに興味を持っている独身の男性もいた。私の将棋の相手で、私と三人で今宮恵比寿に行ったことがある。私はこちらを勧めたのだが、彼女は首を縦に振らない。よく聞くとトラウマがあるのだ。男性が近づくと、あの日の恐怖が蘇るのだと言う。裸足で逃げた思い出。19歳で止まってしまった自分の青春。

居酒屋の主人を見ていると心が安らぐのだと言う。
その居酒屋には私もよく行って将棋をするようになっていたので、私が京都の病院に入院した時、その彼もお見舞いに来てくれた。人懐っこい純朴な大将だ。彼が帰った後NNちゃんはこう言った。
NN「あの人はね、何の苦労もないように明るく振舞っているけれど、実は凄い過去があるのよ。そのことがあってから、もう自分の人生に何も望むまい、と思ったんだって」B「・・・」
NN「車を運転していて、おばあさんを轢いてしまったんだって。そして死んだ。悔やんでも悔やみきれない人生を背負っているのよ、あの人」
NN「あの人結婚してるけど、奥さんとはね、同情から結婚しただけなの」B「・・・・」
NN「奥さん、若いときにヤクザの親分に惚れて、家出して一緒に暮らしてた。だけど結局捨てられて。ボロボロになって帰ってきて、自殺未遂ばかりするようになって。奥さんのお母さんと仕事関係で知り合いだったので、あの人、何とか助けてやってほしいって頼まれて・・それで結婚したんだって」B「・・・・」

いろんな人生がある。NNちゃんは男性の人生に何か強く共感できるものを見て、その背負う重みに惚れたのだろう。男と女には何も性的関係だけがすべてではない。いろんな人生があっていい。いろんな恋があっていい。
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「ODEON」 par Georges MOUSTAKI

Improvisation

何故三人がそこにいたのか思い出せない。そこ、とは俊夫の友人の谷田君の摂津本山の団地の一室。

谷田君は私と同じで、お父さんが病死していない。お母さんは帽子のデザイナー。嫁いでいるお姉さんは以前、神戸の「バイキング」の表紙デザインを担当していた、という。
小柄で内気な子に見えるのだが、まだ大学生なのに、夜は大阪ミナミのキャバレーでトランペットを吹いていた。学園祭のドサクサに、ヤクザからブルーフィルムを借りてきて、自宅でお金を取って秘密の上映会もしたらしい。度胸のある子だ。染色も自分で出来て、その日は好みの色に染めたヨットパーカーを着ていた。
それ以前にも、私一人で谷田君の家に行ったことがある。俊夫と車で摂津本山に向かっていて、高速で俊夫の車が故障した。私は一人でさっさと歩いて高速を降りた(高速道路には途中に階段が付いていて一般道路に降りることが出来る)。
一人で谷田君の家に行ったら、同じ団地の中に神戸新聞の「文芸評」を書いている知り合いの女性がいるので紹介すると言う。
ちょうど私は神戸の「風群」に初めての小説を発表したばかりだった。しかもその処女作を朝日新聞と神戸新聞が文芸評欄で大きく取り上げてくれた。会いに行った。
文芸評論家:お若いのですね。あの作品は40代くらいの人のものだと思ってました。強烈な印象でした。もう人生を見尽くした、たいていのことは経験し尽くした、あとは書くだけ、そういう人の作品だと・・
タイトルは「流れある群色」。すべて詩的表現のみを使って、しかも言葉の力に肉体が反応するくらいのストーリーを、と考えて書いた、ものだった。

谷田君はトランペットだけでなくオルガンもできる。思い出した。その日は支路遺さんの「疾走の終わり」の中の作品を私が初見で朗読して、谷田君がオルガンで即興演奏し、それを支路遺さん本人が録音作品化しようという企画で集まったのだった。

私は支路遺の詩集を手に猛烈な速度で疾走しまくった朗読をしている。支路遺さんはオープンリールのテイプを持参し緊張しまくって回している。谷田君は谷田君で楽譜なしの即興演奏である。ビシッと三人の呼吸が合って、次第に演奏は白熱、私は詩を朗読しながら、快感と恍惚に身を委ねた。三人とも真っ赤になって茹蛸状態である。そのうち谷田君が着ていたものを一枚一枚、演奏しながら脱ぎ捨て始めた。私の生涯においての最高のジャムセッションであった。
最高に仕上がった。一度支路遺さんにTapeを借りて、北新地のビルの一室の、現代音楽を聞かせる店で、回してもらったことがある。聞くだけで身体に火がつき血が逆流した。なにより谷田君が最高のジャズを演奏してくれていた。

支路遺はその直後に支路遺であることを放棄した。「あのテイプは、どうなったの?」何度か聞いた。詩集や詩誌や油絵と一緒に、全部の過去を処分したのだという。そう言われても、簡単に諦めはつかない。
「オレ、車が好きだからタクシーの運転手になろうと思うんだ」といい始めたり、大昔の話をしきりにしたり、最初の妻に会いに上京したり、薬をoverdoseして死にかけたり、今から思えば、彼は必死に底のない沼で、もがいていたのかもしれない。

「Bruxellesあのなあ、(暮らし)って重いんやで。オレはドアをドンドン叩いたのに、あいつは最後までドアを開けさえしなかった。(暮らし)の前には、愛も詩も、何もかも吹き飛ばされる」支路遺はそう言った。

そして支路遺耕治は消え、川井清澄は(暮らし)始めた。
「オレ、ミナミにマンション借りた。一度遊びに来てくれ」
白壁の部屋は黒のモノトーンの新品のインテリアでまとめられ、彼の編集企画能力同様、美的センスの良さに光輝いていた。
彼は市岡の過去、町工場の過去、苦渋に満ち息も絶え絶えだった支路遺耕治を、自らの意思で脱ぎ捨てようという新しい決意に満ちていた。
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Josephine BAKER 「Quand je pense a ca」

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