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社会人になろうとした夏

歩いて5分のTSUTAYAに行ってABBAのCDを借りてきた。何故かABBAを聴きたくなった。
私は20歳までに死ぬと言われていたので、20歳を過ぎてからどう生きていいかわからなかった。今から思うと私は長い間自分をArtistだと認識していた。1978年、ABBA THE MOVIEとともにABBAの大ブームが日本で起きた。昭和で言うと53年、あの年私は初めて社会人という認識を持ったように思う。それまで地球からはみ出て、足を宙に浮かせて、面白おかしく生きてきたが、あの年、私はそれを止めた。
夏になると予備校や会話学校では夏期集中講座というのがある。私は初めて英会話の夏期集中講座を担当したのだ。8月、土日も含めてたしか16日間連続、毎日8、9時間の英語漬け。英会話講師になって2年目だ。そこの学校のシステムと私の言語観が合わなくて、最初何度も追加研修に行かされた。学監が回ってきて観察、結果本部に呼び戻されての再研修である。「またですか、私はこの仕事、向いてないのかもしれません。マシーンにはなりきれません。やめたほうがいいかもしれません」すると学監が言った。「Bruxellesさんは得難い人材です。いずれこの学校の財産になってもらいたい。だから学校のシステムに熟知していただくために、繰り返し研修に行ってもらっているのです」そこまで言われたら、私自身が学校に合わせるしかない。53年の夏期集中講座は校舎の場所も違えば生徒の数も普段の3倍、担当講師の選抜も厳しいはずだ。言わば、学校という組織全体の看板授業である。まずは講師の研修が行われた。私の相方は講師ではなく正社員のK先生。若くてハンサムでギターの弾き語りができる。そのうえ超張り切り坊やである。私も同じくらいにテンションを高めなくてはいけない。私が午前、彼が午後の担当と決まっていた。私は今までずっと夜のクラスの担当であった。まず生活のリズムを切り替えなければいけない。朝早く起きる、などということが私に出来るだろうか?「はじめまして、どうぞよろしく」K先生にまずは挨拶だ。
教材を7冊ほど渡される。それぞれ毎回何分、何ペイジ進むか、すでにプログラムが出来ている。休憩時間は場所を変えて、ロビーで外人講師を交えてのfree talk。内気な生徒も口を開けるように、様々な工夫が組み込まれている。それから各教材の使い方から授業展開の模擬レッスンである。ついてこれない生徒や気力の萎えかかっている生徒はいち早く見つけ出して、授業に引き戻さなければならない。緊張してシーンとさせるのも、笑いを交えてリラックスさせるのも、全部講師の技量にかかっている。教材は教材開発部があって独自のメソッドを打ち立てている。ここは製薬会社の新薬開発部に似て、学校の心臓部だということがわかってきた。マニュアル化すれば、フランチャイズ化できる。つまり、教材やシステムやマニュアルはすでにパッケージ商品で、講師は販売員のようなものだ。講師研修とは即ち販売員教育なのだと、いろんなことがわかってきた。
「私の担当クラスの生徒のレベルはどれくらいなのですか?」ー「ここに来るような人は、すでに40万50万の教材を買って、あるいは他の会話学校にも行って、結果挫折した経験があるひとがほとんどと思っていい。失敗の原因は何かというと、声を出して英語を話す時間が足りないということ。人との言葉の応答の訓練が足りないということ。会話経験にならないということ。この学校のメソッドはその獲得に重点を置いている。知識を与えるのではない、声を出して英語をしゃべるという経験を与える。教材はそのための工夫がなされています。従って知のレベルや英語のレベルは問題ではない。」
「逆に聞きますが、生徒たちはお金を払って、何を求めに来るのだと思いますか」ー「英会話力を高めるためではありませんか」ー「16日間という短期間の経験知を数値化することは不可能です。政治経済に無知な人が、会話体験を経たからといって、急に会話内容や人間が高度になるはずもないのです。この学校が授業料の対価として与えるものは満足感です。これにつきます。皆さんの評価もそれで決まります。覚えておいてください。栄養を摂取するためにわざわざ高級レストランに行く人はいないでしょう。人は満足感にしか、特別なお金を支払いません」
私の中のArtistがとても小さくなって、そのArtistに社会人という服を初めて着せた。
早い話が頭の中に英語がセンテンスとして入っていない人は、英文を構成することができない。まして喋れはしない。だからまず、短い疑問文を復唱させて暗記させる。次にその答えを復唱させて暗記させる。全員が暗記できたところで、疑問文を投げかける。one two threeと間を置いて、全員の頭の中に答えが浮かんだ頃に、一人を指名し、立って答えを英語で言わせる。全員が会話の成立場面を目撃、体験するわけである。間髪を容れず全員に同じ疑問文を投げかけ、それに対してすぐに全員が答えを復唱する。ここの学校の独自のメソッドは暗記させる、というところにあるので、このへんの開示は問題ないだろう。もし当てられた生徒が、答えを英語で言えなかった場合は、いきなり別の人を指名し立たせ、その人に質問を投げかけ、その人に答えさせる。答えが正解の場合は先ほど答えられなかった人に同じ質問を投げかけ、その人に答えを言わせる。そして両者を座らせる。答えられなかった人もバツの悪い時間を体験することなく、また結果的には正しい応答を体験して、できたという満足を得るわけだ。そのあとは先ほどと同じで、全員に質問を投げかけ、全員が答える。喉がカラカラになるまで教室にはほとんど全員の「英語の声」が延々と鳴り響くわけである。反復が主体なので記憶力に自信のない人も、不安にはならず、内気な人も気がつけば声に出して英語を話している自分を見出している、というわけだ。これは英語で声を出させる、という工夫の一例に過ぎないがよくできていると思う。語学の教授法というのは言語学者が日々取り組んでいる課題で、このような35年も前の方法が今も続けられているとは考えられないが。この集中講座10日目くらいに入ると、多くの生徒は夢の中で英語をしゃべるようになる。校舎のなかはAll ENGLISHなので、頭も外国仕様になる。それから全員が英語風名前を使用するので、生徒同士が英語で喋っていても違和感がなくなる。私は普段の授業では英語名を使用していなかったが、夏期集中では使用した。それが文頭に書いたCD、スエーデンのグループ、ABBAである。理由は4人分のパワーを持ちたかったからという単純なものである。

「満足度はどのように数値化するのですか」ー「簡単です。秋からのクラスに何%の生徒が継続するかどうかで決まりです」
これだけが原因ではないが、講師研修会の昼休みに、控え室に集まった夏期集中担当者たちの間から、あれこれと苦情が出た。主にここに登場しなかった〇〇部長の高圧的ヤクザ的物言いに対してである。私のように今まで遊び半分に仕事をしてきた人間には、いろいろ考えさせられることが多かった。つまりは仕事に取り組む姿勢である。そして資本主義社会の厳しさである。管理締め付けは、組織だけでなく、自分自身にも必要だと初めて認識した。目的のためには工夫が必要であり、その工夫は徹底的に緻密でなければいけない。アーティストの自己認識やアウトローという自己規定では、社会人としては生きていけない。どの程度成功するかはわからないが、私は生き方を変えなければ、そうまず時間厳守と世間並の早起きから生活を変えなければ、社会ではこの先やっていけないと、初めて気づいた。
昼休みの講師控え室に、驚いたことにひとり本部職員が紛れ込んでいた。その人は飛び交う苦情に対し、ついに隠し通せなくなったのか、みんなの顔を見回し小さくなってこう言った。「実は、みなさんがいま批判している〇〇部長にここに居るように言われている職員です。ごめんなさい。誰がどんな不満や苦情をここで言っているかを、〇〇部長に報告する役割で、ここにいます」
そこまでするか、の声もなく、そのあと批判がピタリとやんだのは言うまでもない。「成功のためには工夫が必要であり、その工夫は徹底的に緻密でなければならない」それがビジネスのプロである。確かに。それにしても〇〇部長のビジネス手腕、感嘆すべきか嫌悪すべきか、社会人のスタートラインにたったばかりの者には判断がつき兼ねた。

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血液型性格判断とナチスドイツ

以前BASICの特別個人レッスンをしていただいたY教授(統計学が専門)が、その昔いつもおっしゃっていた「Bruxellesさん、血液型性格判断、あれを言っている心理学者はでたらめですよ。あんな者は心理学者でも何でもない。そもそも何の裏付けもないのだから」と。以来私も女性週刊誌を見ても、血液型運勢占いは、見ないようになった。Y教授の話を別の方向からみると、たとえば占星術などは、統計学にのっとっているのかもしれない。それと天文学と、数学と、物理学と。Y教授のはなしだと、血液型性格判断などというでたらめは、日本だけの流行でしかない、ということだった。
今日ナチスを調べていて、初めて知ったのだが、血液型性格判断は、ナチスの研究課題のひとつであったらしいことがわかった。今ナチスを調査中であるが、あそこは完全にオカルト集団で、本当にいろんな研究をしている。「ムー」という子供向けの雑誌があるが、あの辺のことは全部ナチスが研究している。久々に買って最新号を読んでみた。今までは馬鹿馬鹿しいとだけ思っていたが、ナチスを研究中の身としては、これ全部まるっきりの嘘ではない、と考えている自分を発見した。
まずアトランティス大陸。ナチスの考え方だと、その生き残りがアーリア人だということだ。それからエイリアン。その研究もしているし、実際アルデバラン星人とコンタクトをとっていて、そこからUFOに関する知識(設計図など)を得ていたと言うことになっている。南極大陸に生活圏を構築していたという情報もある。そう言えばの話だが、日本はその昔紅白歌合戦には必ず南極からのメッセージが届いたり、中継したりしていた。疲弊した戦後、何故何のために南極探検をしていたのだろう。そしてその成果は、投資に見合うものだったのだろうか?あれは、アメリカに何かのお手伝いをさせられていたような気がする。というのは、アメリカもその時期、南極探検をしている筈だ。それはつまり、ナチスの研究成果を奪おうとしていた、という話になっている。それと、ヒットラーは生きていて、南極に逃げ、そこから地中都市に逃げ込んだと...ここまで来るとちょっと危ない?
ほかにナチスには南米にナチス都市を構築していて(主にエビータのアルゼンチン)、実際ナチスの幹部の幾人かは、別人となって戦後何十年も生きていたというのは、事実である。あれだけユダヤ組織が徹底的に探しまくって地の果てまで追いつめたにしては、悪名高いナチスの責任者たちは、逃げて長生きしすぎている。それからいろんな証言を集めたものも見たが、ヒトラーの死体を見たものはいない。(ここから噂が生まれたと思うが、ヒトラーは、死体焼却を命じて自殺したので、死体が無くても何も不思議ではない)
原爆にしてもUFOにしても、当時可能だとも思えないものを実際に可能にする最先端のテクノロジーを開発していた、これも事実のようだ。もっともオカルト的なこと、それはやはりアーリア人のルーツ探しと、SSの若者を中心に選ばれたごく美しいドイツ人の繁栄のために、優性保護的徹底政策を実施したこと。酷い人種差別と完全な選民選出である。これがおかしなことに、アーリア人の祖先をチベットに求めて、チベットを聖なる地とし、何の目的かはわからないが、多くのチベット人をドイツに連れ帰っている。そしてナチス崩壊と共に、この多数のチベット人たちは全員オカルト的な自殺を遂げている。まあ、ハーケンクロイツをみても、チベット密教との関係は充分推測できる。それからそうそう、日本の秘密結社、緑龍会とナチスの関係、全容は明らかではないが、はなから否定するには交流記録が残っている。緑龍会や黒龍会に関しては、日本よりも外国の資料の方が多い。そのつながりの玄洋社、この人たちの世界パラダイムは、誰も把握していないのではないかと言う気がする。ほとんど納得のいく研究はされていない。ナチスが選民アーリア人について、その出自から徹底的な神話を構築したのは、大日本帝国の八紘一宇に匹敵するものの必要からではないか、とも思う。
大日本帝国は外から見れば、究極に近い宗教国家である。そしてどの宗教にもオカルトの部分はある。なければ信仰とはいえない。その辺が三国同盟にいたる伏線であると思う。つまり、三国同盟は軍事的政治的必然のみではないということである。
大雑把なナチス研究はまだ一割ほどしか消化できてはいない。

三菱重工ビル爆破事件

フランスのテロはそろそろ沈静化するのだろうか?日本は国内でのテロをあまり経験していない国だ。だからオウム事件があったとき、海外のメディアは驚いた。日本に今までなかった種類の犯罪だった。

もう何年前か忘れたけれど三菱重工ビル爆破事件という、テロがあった。
仕事の帰り親友の姫神さんと会って食事をしていた時に、そのニュースを知った。丸の内の三菱重工ビル。もう学生運動は何年も前に終焉していた筈なのに。家に帰ってフト思った。ひょっとして、日登敬子さんの仕事場があるビルではなかったか。そうだ、間違いない。
日登さんには会っていない。一度私がBOXERの川上林成氏の招待で上京した時、そこに電話がかかってきた。もう一度は詩集「2N世代」の出版記念会の時、東京から電話で参加してもらった。
「Bookendごっこ、僕も読みましたよ。僕ですか?吉田のジョーと申します」今年の6月に亡くなった吉田城が日登さんからの電話に出たのを覚えている。話したのはその2回きりだけれど、彼女は一時期私の心のすぐ近くに存在していた。一番好きな詩人だった。このサイトの日記タイトル「そのほかの日々」も実は彼女の作品タイトルを借りている。朗読もたくさんした。自分の作品より彼女の作品の朗読テイプの方が多いくらいだ。文通をしていたが私から電話をかけたことはない。そしてその頃はもう文通は終わっていた。彼女に会う前に彼女の友人のGribouilleに会い、私はすっかりGribouilleにハマッていたからだ。
受話器の前でウロウロした。大丈夫だろうか?会う前に死んだりしないだろうか。仕事で外出していればよかったのだけれど。

彼女と知り合った頃、彼女は高校の美術の教師だった(後に上京してコピーライターになった)。彼女の手紙は便箋の質も色もインクの色もいつも工夫が凝らしてあった。最後にお別れの手紙が来たとき、白紙だったので、唖然とした。どこかに何か書いてあるのではないか、ひょっとして炙り出しか?斜めに透かして見たら、字は白い紙に白いインクで書かれていた。
私が美術手帖を読んだり、画廊でグループ展をするようになったきっかけは、明らかに彼女の影響だったと思う。Gribouilleの絵と出合ったのも、彼女を通してだった。

めったに自分から誰にも電話はしないのに、思い切って決心をしてダイヤルを回した。アパートにいるかどうかもわからない。どきどきする。
B「もしもし。ニュースで事件を知ったけど、大丈夫でしたか?」
日登「あっ、、Bruxellesね、ちょうど今病院から帰ってきたところ」
B「ケガしたの?」
日登「今、頭に包帯を巻いている。でも外傷だけだから、大丈夫よ」
B「・・・・」
日登「誰だか知らない人が、誰だか知らない人の命を狙う、なんて憤りを感じる。でもどこに向けていいかさえ、わからない。Bruxellesわざわざ電話してくれて有難う」
B「・・・・」

よかった、受話器の向こうに彼女はいる。もう絶縁して随分になるのに、名乗る前に、声を聞いてすぐに思い出してくれた。
「あっ、、Bruxelles?」

言葉の力だけを信じて、言葉の力だけで生きていた頃、私には現実はなく、言葉だけがあった。20歳で入院し、絶望の真っ只中にいた時、彼女の詩に出会った。言葉の感応に出会った。そして私は言葉による存在の抽象化に挑んだのだった。

あの人が無事でよかった。電話して声と言葉が聞けて、たくさんのことを確認できて、よかった。

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  Marcel MOULOUDJI 「Un jour tu verras」

電話嫌い

電話嫌い 2005年2月8日 (Tue) 18:03:08

もともと電話は好きではない。けれど、これほど電話嫌いなのは、多分昔TTがかけて来た電話のせいだ。毎晩取り留めのない電話が1,2時間かかってくる。はじめの数ヶ月は礼儀正しく、切るときは「お電話有難う」と必ず言っていた。受話器の側に呼びつけられて、そこから離れられないのは苦痛だ。一度無理矢理切ってみた。すぐにまたかかって来る。TT「ごめんね。電話切れてしまったね」・・また延々と続く。他の人にこの手を使ったときは、その人が怒り出しうまくいったのだけれど。

ある時受話器を肩にかけて、TVを見ることにした。どうも落ち着かない。受話器をテーブルに置いたまま少し離れて本を読むことにした。これも落ち着かない。20分ほどして受話器を耳に当てると、大抵まだしゃべっている。あまりに失礼なことはしたくないので1年は耐えた。それ以後は「申し訳ないけれど、急ぐので、これで切らせて」と言うようにした。TT「すぐに切るから、あと5分だけ・・」また延々と続く。・・
「簡単に用件を5分くらいでまとめて言って」と、率直に言って、それが効果を表すようになるまで、10年かかった。こういう物言いは相手を傷つけることは、わかっていたが忍耐にも限度というものがある。

携帯を持つようになってからのSKの電話も嫌いの原因のひとつかもしれない。
「今駅で、電車を待ってるところ、・・今日は会社でね・・」
一方的で全く配慮がない。その挙句、
「あっ、電車が来た。それじゃ、又ね」
話す内容など初めから何もない。ケータイの電話はさすがに1,2時間続くことはないが、自分の都合だけでいつも一方的に時間を略奪していく。パチンコ台(暇つぶしの相手)にさせられた気分だ。

高橋さんや、関野さんや福井先輩からの電話だと、結構楽しくいつも1,2時間は続く。結局内容の問題なのかもしれない。

電話嫌いから電話恐怖症にまで仕上げたのは三田さんだ。お誘いの電話だ。嫌がっているのを察した後は作戦を変えたようだ。
「もしもし三田です。多忙だったので、なかなか電話できなくてごめんね」 ??????いきなり謝られても困る。誰も電話を欲していない。
三田「最近どうしているの?」B「忙しい」
三田「僕も忙しくて、ゆっくり会えないんだけど、何とか時間を作って、電話するよ」(お願いだから、電話を止めて。勘違いの幻想に早く気づいて)

ベルが鳴ると受話器をとるまでに、無視しようかどうしようか、必ず数分は迷う。ある時意を決して受話器を取った。
「・・・」無言だ。様子を伺っている気配。
「もしもしBruxellesですけど」珍しくこちらから名乗った。
「・・・。はい三田です」そして間が空く。間が持たないので、話しかける。「三田さん、久しぶり、元気だった?」やっと会話が繋がった。話すこともないのですぐ又途切れる。すると
「ところでBruxellesちゃん、この電話何の用?」!!!
(自分から電話をしてきてボケたのかしら。多分相手からかかってきたという幻想の自己暗示にはまっているのだろう。人は時々自分の夢や願望を現実とすりかえる)ヒャッと恐怖が走る。

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「Les yeux fermes」  par Catherine Lara

素人賭博

素人賭博 2005年2月4日 (Fri) 18:22:11

中村さんに呼ばれた。荷崩れのクレイムだ。写真を付してあちら側に保険の請求をしてもらう。タイプは後輩の清水さんが打つようになった。訳文を手渡したとき、いつもはコメディアンの清水さんが真剣な顔で手招きした。
「Bruxellesちゃん、ちょっと言ってやって。最近典ちゃん(上田さん)毎日帰りに新地の喫茶店に立ち寄って、バクチばっかりしてるのよ。私がいくら言っても、言うこと聞かない。何とかしないと・・」
「わかった」そのまま、W法律事務所に向かった。

「典ちゃんちょっと」上田さんを法律事務所の応接間に招いた。
「ああBruxellesちゃん、久しぶり。どうしたの、何か用?」
「このごろバクチしてるらしいね」
「そんなん、してない。何も、してない」しどろもどろだ。
「摘発されたら、どうなるかわかってるよね」
二人ともまだ立ったままだ。距離を詰めてまっすぐに顔を見た。少し間がある。
「私のお金で、私がどう遊ぼうと、そんなの勝手でしょう。Bruxellesちゃんに、とやかく言われることはないわ」
「ここが法律事務所で、W先生は日弁連の会長、・・、典ちゃんはどうなってもいいけど・・」
「説教やったら、帰って!」そう言って上田さんは身構えた。

彼女は油絵を習っていた。新地の現代画廊でそのグループ展があった時、私も立ち寄りそこでふざけてボクシングの真似事をしたことがある。私の右ストレートが彼女の手首に当たって高級腕時計を壊した。一言の文句も彼女は言わなかった。あの時のことを彼女は覚えている筈だ。だから身構えた。

それでは期待に応えよう。
パッシーン。勿論平手だ。パンチではない。しかし彼女は吹っ飛んだ。吹っ飛んで思い切りドアで頭を打って、バランスを崩して倒れた。物凄い音がした。正直びっくりした。なまじ運動神経がいいので、避けようとして自分で吹っ飛んだのだと思う。反撃を予想して今度は私がファイティングポーズをとった。

上田さんはノロノロと立ち上がり、ソファーにゆっくりと座ってうなだれた。
「大丈夫?」
「Bruxellesちゃん、実は私も、前々から止めよう止めようと毎日思っていた。でもね、習慣になって、ズルズルと・・。踏ん切りがつかなかった。・・でもこの痛さで吹っ切れた。Bruxellesちゃん、わかった、もう、きっぱり止める」
物凄くあっさり成功して、とても嬉しかった。笑いがこみ上げてきたので、黙ってドアに向かった。出て行こうとすると上田さんの声が私を追ってきた。
「Bruxellesちゃん、ありがとう」「Bruxellesちゃん、手ぇ、いたかった?」
涙が出そうになった。くるりと振り向いて言った。
「思いっきりひっぱたいて、物凄い快感、クックックックッ」

そのまま大江貿易の事務所に戻った。そして清水さんを手招きして小声で言った。
「典ちゃん、もう、きっぱり止めるって」
「ウソォー。さすがBruxellesちゃん。一体どんな話をして、説得したの?」
「何の話もしていない。殴っただけ」
「ええっ、、!!」
「クックックックックッ。典ちゃん血まみれになって倒れてるから、見てきてごらん」
「エエッ、ウソォー!!」
顔を引きつらせて、目をむいて、重い体重の清水さんがW法律事務所に向かってドタバタと駆けていった。

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「Mississippi River」 par Nicolas PEYRAC

悪戯っ子世に憚る

悪戯っ子世に憚る 2005年1月29日 (Sat) 19:17:14

SSは薬事専門学校の実験アシスタントをしていた。自由時間は比較的多い。車で家の近くまで会いにきた。外の喫茶店で会っていたけれど半年もすると「ABBAの家に行きたい」というようになった。人様をお呼びするような家ではないと断ったのだけれど「一回だけでも、どうしても」と言う。それで、目隠しをして、手を引いて家に案内した。・・
私がベッドに寝転がって訳したばかりのバルバラを歌っていると、SSもベッドに上がってきた。曲の好みは全く合わない。彼女はチャカ・カーンのファンだ。
母が帰ってきた。SSは飛び起きて「お邪魔してます」と挨拶した。後で母に聞くと、母はとても気に入ったという。「どうして?」「こんなオンボロ家に来て、あんなに楽しそうにしてるから」「そんなに楽しそうにしてた?」「とっても」

私の誕生日にSSは突然やってきた。
「どうしてここがわかったの?」
「目隠ししても、地面は見える。必死で地面を見て道順を覚えた」「ええェ!!」
シルクのパジャマをくれた。それから休みのタイミングが合うと、ダイレクトに家に来るようになった。

天草がやってきた。
「天草、今日ね、あと15分もしたら、またSSがやって来る。病気で寝てるって言ったんだけど、じゃ、お見舞いに行きますって」「××××」「××××」「××××」「××××」「そうしようよ。そうしよう。面白い!」クックックックックッ・・。
すぐにSSの足音が聞こえた。
大急ぎで奥の座敷の布団の中に天草が服のまま飛び込んだ。SSが玄関を開けて入ってきた。私は座敷の向こう側の廊下に隠れてタオルで口を押さえてSSを呼んだ。
「今日はこっちの部屋で寝てるから、そのまま上がって来て」笑いを堪えるのに必死だった。
「お邪魔します」と言いながら、重い襖を開けてSSが入って来た。天草は顔まですっぽり布団をかぶっている。覗くとSSがちょこんと布団の側に座っている。
「ABBA変な格好して寝てるのねぇ」
笑い声を押し殺して、呻きそうになった。1秒、2秒、早く布団をめくれ、早く。3秒、4秒、、。
「どうしたの?」どうしたのじゃない、早く布団をめくって、、10秒、11秒、12秒、、。
ブハハハハハハハハハハハッッッッッッ!!
苦し??い!!ブハハハハハハハッッッッッ、、、!!
天草が笑いを堪えきれなくなって、ふとんの中から跳ね上がった。同時に私も廊下で笑い転げた。天草と二人でひとしきり大笑いした後で、SSが、顔色一つ変えていないことに気づいた。
「あー、面白かった、Bちゃん、僕帰るわ」と言って、あっさり天草が玄関へ向かった。
「ごめん、怒ってるの?」と私。
「怒りよりも、呆れかえってる」とSS。
玄関から天草の声。
「あれ、なんで、これ、内側から鍵がかかってるの?なんで、なんでー?」
「なかから鍵かけてきたの?」と私。
「いつもそうしてる」とSS.

「失敗してしまった。絶対布団めくって、中を覗くか、入っていくと思ったんだけど、どうして?」
「玄関に見慣れない靴があったので、誰かが居るって、初めから気づいてた」
「ぎゃふん。クックックックッ、悪戯にも頭が要る。失敗。でも、面白くなかった?」
「全然」そう言ったままSSは深い不信という物思いに沈んでいってしまった。
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「Ma mere chantait toujours」par Ginette RENO


Puzzled Sixteen

Puzzled Sixteen 2004年12月31日 (Fri) 23:35:40

家に帰ると玄関に祖母と全く見知らぬ高校生がいる。
「Bちゃんにお客さんがお待ちよ」その子が立ち上がる。
「はじめまして。僕T高の学生で西口と申します。吉沢の古い友達です。ちょっと場所を変えてお話しましょう」
「おばあちゃん、じゃ、行ってくる」
二人で隣の喫茶店に入った。

「単刀直入に申します」「ええェ!!」
なんだか、短刀を直入されるような気がしてギクッとした。
「吉沢と付き合ってやって下さい」
吉沢君はクラスメートだ。船乗りになろうと商船学校に行き途中でやめて普通高に再入学したので1歳年長。
「どうして本人が来て直接言わないんですか?」
「あいつは今Bruxellesさんのお母さんの働かれている会社に行ってお母さんの許可をいただきに行っています。今頃お話しているはずです」
「ええェッ!!道修町まで?」
・・・とにかく吃驚仰天したので、お返事はゆっくり考えて、また後で・・ということにしてもらった。駅まで送っていく。電車を見送って悩んでしまった。駅に公衆電話があったのでクラスメートの柴田さんに電話した。「・・・・・・どうしよう?」
そこへ祖母と兄が怖い顔をして私を探しにきた。
「何してるんだ!」「何してるって、友達に電話してるだけ」
「早く家に帰って来い!」
右側を兄に、左側を祖母に捕獲されてまるで凶悪犯が連行されるように連れ戻された。
祖母と兄が怒っている。「高校生の分際で」

ガミガミ言われているところへ、ようやく母が帰ってきた。
「エレベーターのところで、おばさん荷物持ちましょうって荷物持ってくれるの」
「大沢さんにも会って、大沢さんは、あの子しっかりしてるからいいんじゃないの、という意見で」

次の日から休み時間になると吉沢君が私を教室の外に連れ出すことになった。
「乞食一人の命とミロのビーナスと、君はどちらが価値があると思うか?」・・(そんなこと考えるのもめんどくさい)音楽が聞きたいと言ったら、次の日レコードを貸してくれた。フランク・シナトラとディーン・マーチン。ビング・クロスビー。なるほど、プレスリーとは随分違う。あの子本当は10歳くらい年上なのでは?

土曜日教室でグズグズしてたら「今から全校水泳大会があるから見に行こう」と柴田さんが誘ってくれた。プールに行くと応援席も満員でなにやら白熱している。おや、わがクラスは幼馴染のT坊がトップで出るのだ。天然茶髪天然パーマでカッコイイ。
バーン。ピストルが鳴った。水しぶきが上がる。オリンピック並みの喚声が沸き立つ。意外。アンカーは吉沢君だ。逆三角形のいい身体をしている。グングン抜いて行くではないか。余裕のある泳ぎ。そうだ。あの子はsailorになろうとしていたくらいだから、泳ぎなんて、きっと朝めし前。

クラスで遠足に行った。私一人が少し遅れ始めた頃T坊が戻ってきてモジモジしている。何か私に言おうとして、くるりと振り向いて聞こえるような大声で言った。「そうだ。吉沢に頼んでこよう」そして走っていった。T坊はお母さんに「Bちゃんの荷物持ってあげなさい」と言われたのに違いない。でも恥ずかしくて。
案の定、吉沢君が入れ替ってやって来て、荷物を持って身体まで持ち上げてくれた。最近では学力体力の両面で吉沢君はクラスのリーダーになっている。「ついで」の原理が働いて、私までクラスで一目置かれているような感じがする。

翌年の3月、大学に合格した兄に祝電を打つというサービスをした吉沢君、なのに私には言わなくてもいいことを言って、しくじって私を凍り付かせてしまった。
「Bruxellesさん、僕がもし、衝動的に君を襲ったら、君なら、逃げてくれるよね」
(ええッ?この人、何を言ってるんだろう。私を襲う??って。私を守ってくれるんじゃないの?!)
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「FAIS LE WAOU WAOU」par CHAGRIN D'AMOUR
ジャケットは両面お二人のヌード。Valliの方は手術の縫い目の跡も生々しい。


遅刻

遅刻 2004年12月7日 (Tue) 19:02:16

昔から私はグズだ。20代前半は特にひどかった。約束の時間は大抵1,2時間遅れていった。友達として残るのは忍耐強い、私に対して寛大な人ばかりだ。一度感動したことがある。俊夫と阪急三番街のK書店で待ち合わせたとき、3時間も遅れた。実は約束の時間に目覚めて、それからゆっくり起きて食事をして(バカモノ!!)出て行った。梅田について時計を見たら・・。さすがに申し訳ない気持ちで一杯になる。地下鉄を上がって書店に近づいて、さらに絶望的な気持ちになる。書店が閉まっていたからだ。今日は水曜日だった。でも近づくに従って少し安心した。休みだったら店内に入れない。と言うことは帰ったに違いない。不幸中の幸い(何が!!)だ。ガランとして誰もいない。一回りしてみようと左の角の隅にまで行ったら、そこに人が一人、よく見ると俊夫がへたり込んで蹲っていた。感動した!そろりと近づいて「ごめんね」と言ったら、顔を上げてニッコリした。実はもう怒る気力も帰る気力もすっかり失くしていたのだ。

上には上がいる。前日知り合って一緒にバンセンヌの湖でボートにのったジャンポールとジャニンヌ。翌日エッフェル塔の南の足で待ち合わせした。私は久々に3時間遅れて行って、もう来ないだろうと思っていたら、4時間遅れて走ってきた!いやはや、もう驚きの感情しかなかった。自己記録を破られた心境。

私はその日も実は1時間半遅れた。Jean-Claude Rossigne先生の北白川の自宅で開かれた忘年会。急な坂道を地図を見ながら登ってゆく。冬なのに汗までかいて。
純日本風の家で、入り口に、浅草にあるような大きな赤い提灯があった。会場も当然和室。スルスルと障子を開けたら足の踏み場もないくらい生徒たちが集まっていた。皆が遅れてきた私を一斉に見る。私は動けないで立ったまま途方にくれる。すると一人の学生が「ああ、ここ空いてますよ、どうぞ」とタイミングよく声をかけてくれた。空いていたのではなく、よいしょよいしょと、無理に詰めて小さな空間を空けてくれたのだ。私は飛び石を飛ぶようにそこへ行って座った。・・・
反対側の席に京大数学科の山田さんという人がいた。その人がしばらくして立ちあがり、フランス語で自己紹介を始めた。サンケイスカラシップに合格して、もうすぐパリ大に行くという話しだった。「2次の面接で仏語での質疑応答、専門的なことまで聞かれるのですか」と聞いた。あらかじめ質問も全部予測し、回答もあらゆるパターンの準備をしていった、と答えた。数学は20代が勝負なのだ。20代で成果を出さなければ、その先、ひらめくことはないから、絶対に留学を決めたかったのだと言った。席を空けてくれた子とはあまり話さなかった。隣に座って話すのを聞いているだけで、何かが手に取るようにわかった。サービス精神がやや過剰気味なところ、真面目と御ふざけの度合い、ホットとクールの深さとその位相、心の中で大切にしているものと、パーティーでの社交性・・・何からなにまで。・・

その夜家に帰って母の顔を見たとき、聞かれもしないのに、私はこう言ったのを覚えている。
「あのねBruxelles今日ね、自分とそっくりな男の子に会った。まるで自分がもう一人そこにいるみたいな・・」
Jとの出会いだった。

/////////////////////////////////

「Un homme et une femme」 par
 Nicole CROISILLE & Pierre BAROUH


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