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赤い嵩・彼の国で起きたこと(4)

赤い嵩・彼の国で起きたこと(4) 2004年11月16日 (Tue) 18:12:18

ポルポト追放の立て役者フンセンは元々ポルポト派の地方幹部だった。ポルポトに粛清されそうになり、ベトナムにポルポト派追放の手助けを要請した。当時26歳。シアヌークはベトナムの軍事力を背景にした「カンプチア人民共和国」をベトナムの傀儡政権だと非難した。自分自身、幽閉から開放され、事実ベトナム軍はカンボジア人のための救済軍だったのだが、単純な見方をすれば、侵略軍なのだ。狂気の独裁政権が自国の人民をたとえ国家として存続し得なくなるほど虐殺しても、他の国の軍隊が見るにみかねてその国民を救済しようとしたとしても、やはり領土を侵犯した以上、侵略軍以外の何ものでもない。この微妙な問題を解決するためにこそ、国連軍、多国籍軍の存在意味がある。無法地帯と成り果てた国家に、法と秩序と機能する政治をもたらすために、行動に出る軍隊であって、「やられたらやりかえす」戦闘行為を目的として勝ちに行く軍隊であってはならない。

ベトナム戦争に負けたアメリカは、反ベトナムの立場から、ヘンサムリン政権と戦うポルポト派を支持していた。タイ軍は、クメール・ルージュの伐採した材木や採掘した宝石を安く買う必要上、クメール・ルージュの存命を望んだし、中国は大量の武器販売とポルポトの中国式共産主義喧伝のため、最も近しい親族国家の立場をとり続けた。つまり強力支援国家だった。大虐殺の事実が次第に明らかになりつつあっても、山と積まれた骸骨を前にしても、見て見ぬふりをし続けた多くの国々が、ポルポト派の犯罪を伏せたまま、何年もの間その勢力を延命させた。何より反ソ反ベトナムの感情がカンボジアに注がれ続けた。
国際社会がカンボジアに関して正気を取り戻すのは国際政治が大変動を起こし、冷戦構造が消滅し、共産主義体制が政治的にも経済的にも崩壊したあたりからだ。正義が機能したためではない。国際政治とは、国内政治とは、共に力のバランスの上に立っている。そしてそのバランス(天秤)はpower politicsにより、常に傾いている。

シアヌーク時代のカンボジアは1961年、タイと国交断絶。1963年、南ベトナムと国交断絶。北ベトナム代表部をプノンペンに設置。1965年アメリカと断交。ホーチミン・ルート構築を援助。1969年アメリカがカンボジア爆撃を開始。1970年、親米派ロン・ノルのクーデターによりロン・ノル政権誕生。こうして見ていくと、カンボジア問題の諸悪の中心はポルポト派であることは間違いないとして、そもそもの発芽はベトナム戦争のあおり、であったと言えるかもしれない。否そこまで遡るなら、1946年12月から1954年7月までのインドシナ戦争の検証も不可欠になってくる。

かすかに生き残った人たち、平和の後で生まれた子供たち、日本および世界の国々が受け入れた難民の人たちに、頑張ってもらおう。クメール文化と、Sok達の祖国再建のために。

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サンフランシスコに住んでいるKKがバカンスをチューリッヒで過ごして、帰りに観光をかねてParisにやってきた。昨日はモンマルトル、今日はカルチエ・ラタンを案内する。ちょっと小さな通りに入ってすぐだった。多分KKが先に目に止めた。
前から来るのはSokだった。あらら・・。
「Bruxelles、この前待っていたのに、来なかったじゃないか。姉さん達もがっかりしてたよ」
「あら、Sok、ごめんなさい。急にお腹が痛くなって」
機嫌が悪い。もう誘ってくれないだろう。
「その人、日本人かい?」
「あっ、チューリッヒから来た日本人の友達、KKって言うの。KK,こちらSok、カンボジア人の友達」簡単に紹介する。
別れた後でKKが言った。
「Bruxellesちゃん、あの子セクシーね。存在感がある。あの子達さっき男同士で、肩組んで歩いてたわよね」
「そんなこと全然気づかない」「お友達なの?何処で知りあったの?あの子なにしてるの?」・・・・・・

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INDOCHINE 「Les 7 jours de Pekin」


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赤い嵩・彼の国で起きたこと(3)

赤い嵩・彼の国で起きたこと(3) 2004年11月11日 (Thu) 14:30:42

手紙が来た。次の土曜日Partyに行こうというお誘いだ。この前会ったベネズエラ人のラサッドの家で。差出人のSafiは、ドイツ人とアルジェリア人の混血。18区に住んでいる。体格もルックスも私好みで、それにどういうわけか親戚のような身近な親しみを感じる。話し方も声もとてもいい。Safi Mohamed、名前からしてイスラム教徒だ。車でピックアップに来てくれるという。どうしよう。行けないという返事を出しそびれている間に土曜日の4時が来た。SokはSok本人とアンコールワットしか知らない。背景は未確認。ノコノコ出かけるべきかどうか。ヴァンセンヌ城までなら、ちょっと走っていけば、今からでもまだ間に合う。どうしよう。
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ローランド・ジョフィ監督「キリング・フィールド」は映画人にはどのように評価されたのだろうか。
カンボジア人の通訳兼ガイド、ディス・プラン役のハイン・S・ニョールは、1984年度アカデミー賞助演男優賞を受賞している。彼はプロの俳優ではなく、元医師で彼自身映画の役そのままの悲惨な体験をしてきたらしい。その後1996年2月25日、ロサンゼルスの自宅前で銃殺されている。
原作はカンボジア内戦をルポし、プューリッツァー賞を受賞したニューヨークタイムスの記者シドニー・シャンバーグ。映画の中で本人は早々と脱出し、最初と最後にしか顔を出さない。したがって物語りはカンボジア人通訳とアメリカ人記者の友情という視点でしか表出できていない。

1993年5月の選挙の結果、シアヌークの息子ラナリットのFUNCINPEC党と旧ヘン・サムリン政権の人民党からなる連立政権が発足。ラナリットが第一首相、人民党のフン・センが第二首相となる。1993年9月23日、新憲法が公布され24日、シアヌーク国王を国家元首とする「カンボジア王国」が、23年ぶりに統一政権として復権した。
98年7月の総選挙で人民党のフン・センが首相の座についた。ポルポトは処刑ではなく1998年4月15日73歳で病死している。形勢不利になった派閥の常、ポルポト派は数年前から内ゲバで自己崩壊を繰り返し、イエン・サリ、キュー・サンファンら幹部も投降して、クメール・ルージュはほぼ壊滅した。同時にポルポトのHolocaustは時の流れの中に風化していった。ごく一部の人間を除いてポルポト派の息を浴びた人しか生き残れなかったからである。この国の国民は自分たちの罪を裁くことではなく、自分たちの罪も、被害も災難も忘れてしまうことによってしか、つまり時代そのものを風化させることによってしか、国家再生のスタートラインにつけなくなってしまっていたのである。

ポルポトが政権を奪われて、タイ国境に逃げたのが1979年、タ・モクが逮捕され、ポルポト派が完全消滅するのが1999年。何故20年間もの間いはば、老衰死するまで、生かされたのだろうか。
1991年のパリでのカンボジア和平協定には、ポルポト派のGenocideは一行も触れられていないし、人道的見地からの非難の声もこの時点ではまだもみ消されている。1993年UNTACが実施した総選挙をボイコット、サボタージュし、バングラディシュ、ブルガリア、日本、中国等からのPKO要員を殺害した辺りから、自ら馬脚を現した。
国会で1994年クメール・ルージュは非合法化され、1997年6月カンボジア政府は国連に、国際法廷の設置を正式に要請した。忘却の彼方から、どういった声が引きずり出せると言うのだろうか。

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「Banjoli」  Youssou N'Dour 別名モンタ・ヨシノリ?

赤い嵩・彼の国で起きたこと(2)

赤い嵩・彼の国で起きたこと(2) 2004年11月9日 (Tue) 13:36:23

Quartier Latinを歩いていたら、ばったりSokに会った。
「Bruxelles元気?」
「偶然ね。Sok,すっかり慣れたパリジャンね」
「Bruxelles、食事どうしてる?」
「貧しいからスーパーで買って、自炊してる」
「あのね、大学の学食で食べると、うまくて安いよ。そうしたらいいよ」
「学生証なくてもいける?」「大丈夫だよ」
すれ違いざまに言葉を交わした。お互い急いでいたのだ。7,8歩通り過ぎたところで、Sokが走って戻ってきた。
「思い出した。来月の第一土曜日、姉の家でPartyやるんだ。Bruxellesもおいでよ。そうだな、午後4時にヴァンセンヌのシャトーの入り口で待ってるよ。義兄や姉や友達を紹介するよ。都合つく?」
「有難うSok。来月の第一土曜日午後4時、シャトーの切符売り場のあたりね。そこまで迎えに来てくれるのね」
「待ってるよ。じゃあね」

単なる留学生だと思っていた。1975年カンボジアで何が起き、何故この子が幸運にもParisにたどり着いたのか何も知らなかった。

1863年からカンボジアはフランスの植民地だった。1953年独立する。当初シアヌークは「独立の父」として圧倒的支持を受ける。シアヌーク外遊中の1970年3月17日、当時の首相ロン・ノルのクーデターが勃発、国会投票で国家元首の座を追われる。1970年10月9日、王政から共和制になる。シアヌークは北京に亡命「カンプチア民族統一戦線」を結成、ポルポトらの共産主義勢力クメール・ルージュと手を結び権力の奪還を企てる。そして先に書いた1975年4月17日の、プノンペン入場になる。

ここにベトナム軍が登場する。1978年12月25日、元はポルポトの手下だったヘン・サムリンの「カンプチア民族救国統一戦線」と共に攻撃に出て1979年1月6日「民主カンプチア」を権力の座から敗走させる。クメール・ルージュによって王宮に幽閉されていたシアヌークは北京に、クメール・ルージュはポルポト、イエン・サリら幹部と共にタイとの国境地帯にそれぞれ逃走。結果、大虐殺と恐怖のポルポト時代は4年で幕となる。ベトナム軍はベトナム主導の社会主義国家「カンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)」を成立させる。
シアヌーク、ポルポト、そしてロン・ノル政権で首相を務めたソン・サン、の3派は同盟して1982年「民主カンプチア連合政府三派」を結成、カウンター勢力となる。それまで民主カンプチアが握っていた国連の議席はそのまま89年までポルポト政権が占め続け、New Yorkの国連ビルには1992年までクメール・ルージュの旗がひらめいていた。実質カンボジアを支配するヘン・サムリン政権は、国際社会から孤立し、国連はこの時点で、前政権が国民に何をしたか、認知していないのだ。内戦はさらに続く。

国際政治に大変化がおきた80年代末あたりから、世界の政治情勢全体に調整余震が起こり、カンボジアに平和を、の声が上がりはじめる。19ヶ国により待ちに待った「パリ和平協定」が調印されたのは、なんとようやく1991年10月23日のことだ。人々を殺戮し続けた、たとえば14歳のクメール・ルージュの子供兵士は30歳になっている。国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が設置され、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など、日本の新聞にカンボジアの政情が正面から取り上げられ、カンボジア問題として一般の人々の知るところとなるのも、ようやくこのあたりからである。

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Jean Michel Jarre 「Oxygene全曲」
 クセナキスの「ペルセポリス」を筆頭に実はこの手の曲が非常にを通り越して異常に好きです。

赤い嵩・彼の国で起きたこと(1)

赤い嵩・彼の国で起きたこと(1) 2004年11月5日 (Fri) 19:08:19

地下鉄に乗って日本に手紙を書いていた。(そう言えばその頃地下鉄にまだ1等と2等があった。勿論2等車)隣の男が覗き込む。無視して書き続ける。どうせわからない筈。
「この字は××という意味だね」突然話しかけてきた。
「あら、どうしてわかるの?日本語読めるの?」
「僕、中国語出来るから」「中国人なの?」
「違う。カンボジア人」「何してるの?」
「学生予備人。姉がフランス人と結婚してるから、頼って出てきたばっかり。姉の家にいる」「どこ?」「○○」「じゃ近くね」
「義兄って何してる人?」「パリ大学で教えている」
「じゃあなたも将来はカンボジアのエリートね」
「カンボジアといえば・・アンコール・ワットしか知らないわ」
「漢字で筆談しようよ」「OK」
「我是Sok」「我是Bruxelles」

当時1975年。私はあまりにも無知だった。植民地支配を受けた人々はこんなにも暗いのかと、ほかのアジア人を見ていつも思っていた。どうしても拭えない暗さが顔に貼り付いている。ソックも明るいのだけれど、どこか暗い。私が無知から抜け出せたのは10年少し経ってからだ。日本人もアメリカ人も国連もすべて事実何年も無知であり続けた。報道が一切されなかったからだ。私は、カンボジアから命からがら逃げ帰った日本人の手記によって初めて、1975年4月17日から始まる、人類史上例を見ない民族の大虐殺の事実を知った。しかも自国民による自国民の大虐殺を。

クメール・ルージュ軍はプノンペンを占領、ロン・ノル政権を倒し国名を民主カンプチアと改名。国民の大歓声を受けてクメール・ルージュ軍がプノンペンに入城した様は映画「キリングフィールド」の冒頭シーンにあったと思う。クメール・ルージュの首脳部を構成したのはポルポト、ヌオン・チャ、タ・モク、キュー・サムファン、ケ・パク、イエン・サリ、ソン・セン、ユン・ヤト、イエン・シトリ。彼らは1950年代フランスに留学した元は知的エリートで、反植民地主義と毛沢東思想をミックスさせた原始共産主義を掲げ、カンボジアに理想の国家を築こうとしていた筈。
カンボジアは1970年までは立憲君主制。アメリカに支持されたロン・ノルのクーデターによって1970年3月18日からは、アメリカの傀儡国家だった。これに対してクメール・ルージュ軍は、シアヌークという錦の御旗を奉じる、カウンター勢力。したがってクメール・ルージュのプノンペン入城は輝かしい国造りへの幕開きだった筈なのだが。

クメール・ルージュの子供のような兵士たちの爆発的行動力は、文化大革命時の紅衛兵に似ている。数時間も経ずして実行したこと。まず都市住居者、資本家、技術者、学者、知識人などの頭脳階級から一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。学校、病院、工場の閉鎖。(入院患者は包帯を巻いて松葉杖をついて強制移住の列に強制参加させられる)銀行業務の廃止(通貨の廃止)宗教の禁止、私財(自宅を含む)の没収。移住させられた(つまり住環境を奪われた)人々は「集団農場」でいきなり農奴に強制変身させられる。さらに頭脳階級は皆殺し、反乱者、反乱の可能性のある指導性のある人間も殺戮。革命を聞きつけ国造りの夢を見て、海外から引き上げた留学生、資本家も皆殺し。子供は親から引き離され泣き叫びでもしたら、即串刺し。前政府関係者、知識人だけでなくその関係者全員及びベトナム系の人々も処刑。
「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべきだ」という思想が根底にあり一連の行動は「国民を餓えさせないための食料の自給を何よりも重視する」政策として正当化された。「カンボジア・ゼロ年」
餓えと殺戮による総死者数は確定されていない。300万、170万、140万、120万等など。犠牲者150万人が客観的に一番真実に近いだろうと言われている。

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Pierre Henry 「Tokyo 2002」 演奏のみ

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