PLANETEに戻る

Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ジルバを踊る

40数年前の京都の日仏学館のクリスマス・パーティーを思い出している。
ほかの人達と同じようにフロアーで踊っていたのだが、Joeが踊りながらステイジに上がろうとする。何の抵抗もなく私も一緒に踊りながらステイジに飛び上がる。みんな踊りをやめて私たちにたくさんの目が集中する。Joeは既にダンス・スクールで一通りダンスをマスターしている。私は基本が分かっていない。Joeが「ホイ」とか「ソレー」とか合図を送ってくれるので、それに合わせて踊っているだけだ。曲が終わりフロアーに戻るとものすごい拍手を頂いた。私はすでに息も絶え絶えだ。しかしよく楽しく踊れたものだと思う。

思い出した。5歳の私は父とジルバを踊っていたのだ。若い父とふたりで、曲はこの曲だったように思う。父の若い頃、日本中でダンスが爆発的に流行していたらしい。その昔母も父とダンスを踊っていたことがあるらしい。小さな私が女の子であることを思い出し、父はその時「踊ってみよう」とふと思ったのだろう。父と踊った機会は数えるくらいしかないが、今でもその時の父の顔を憶えている。物凄く鮮明に思い出す。私は楽しくて笑いながら踊っている。父は物凄く若い。私をくるくる回す。
そうだ、その記憶が身体のどこかに残っていたからこそ、あの時日仏学館のステイジでJoeとジルバが踊れたのだ。

父と踊ったジルバ、Joeと踊ったジルバ、私にはどちらも宝のような思い出だ。父もJoeもあの世から、私と踊ったジルバのことを思い出してくれているだろうか?
長く生きると、前を見続けるより、時に振り返る方がそして思い出に浸る方が遥かに楽しい時がある。「過去を振り返らず、常に未来を見つめて前を向いて生きる」という人生哲学を持っている人にしばしば出会う。チャレンジ精神は尊重したいがなんだか気の毒に思う。50を過ぎて60を過ぎて70を過ぎて80を過ぎて90を過ぎて、前を見続けたところで、はち切れんばかりの可能性が見いだせる訳ではない。過去に濃厚な時間がたくさんあれば、それを追憶するだけでも充分楽しい老後を過ごせるはずだ。考えてみれば、そのために人は、若い日々を精一杯に生きてきたのではないだろうか。
スポンサーサイト

Gentlemanと執事 (2)

日曜日見知らぬ高齢者の来客が私にあった。私はまだ20歳かその辺りで、身分はこの家の子供に過ぎない。母も兄も知らん顔なので、私一人で対応する。
「Bruxellesさんですか。私は長次氏の執事をしておりました○○と申します」
そう言えば○○氏の名前で数ヶ月前、長次氏死亡の連絡を受けていた。だから別に長次氏からの伝言があるわけでも何でもない。
長次氏と執事氏と私の祖父たちは、西洋の当時の現代詩を翻訳する趣味の会を楽しんでいたらしく、革張りの一見書籍のような手帖を渡された。万年筆で日本語に訳された現代詩がぎっしりと書かれている。
「これは祖父の字ですか?」
「いいえ。ただ長次氏の形見として...」
執事氏は自分の息子は名古屋でパイロットの教官をしている、と言った。その関係で長次氏所有の広大な土地は全日空に飛行場として売却し、財産処分は既に完了したと話した。年齢から言うと何年も前に退職した人のようにも思えるのだけれど、老執事というのはよく存在する。この人が一生独身だった長次氏の最後を唯一人で看取ったのだろうか?私には何もわからない。初対面の執事氏も私が祖母の孫だという以外、私に関しては何の情報もない筈だし、ただ誰かに長次氏と自分のことを話したかったのかも知れない。執事氏は私に私や家族のことを何か質問することも一切なかった。祖母に関しても。
この時私の記憶に残ったことはたった二つ。ひとつは、執事という職業の人物を初めて間じかに見たこと。後に見たカズオ・イシグロの「日に名残り」に出てくる執事長の雰囲気によく似て、教養も誇りも高そうな人物だったこと。もうひとつは、母や兄が私の来客を一切無視して、顔も出さなければお茶も出さなかったこと。結局執事氏は玄関の板の間に腰を下ろしただけで、その訪問意図も曖昧なまま帰っていった。母や兄にしてみれば赤の他人だ、という意識なのだろうか、私にはどうも理解しかねる部分だ。10年前、父の葬儀の日、Gentlemanの出で立ちで出現した長次氏と言葉を交わしたのは、葬式のドサクサもあって、祖母と私だけだった。母や兄の意識の中には、従って長次氏もましてやその執事氏も、リアルには存在し得ないのかもしれない。
私が祖母の危篤を知らせた時、長次氏はすでに病床にあった。そしてちょうど祖母の死の半年後に後を追うように生涯独身のまま(あの執事氏に看取られて)この世を去られた。それだけでも、祖母の人生の最終章にまるで赤い薔薇の花束を献花するような、充分にロマンチックな物語ではないか。

//////////////////////////////

カズオ・イシグロの「日の名残り」に関して、Reviewをあたってみた。自己を押さえた究極の恋愛などという感想が多かったが、私は感動すべき恋愛要素を全く見出すことが出来なかった。そして他の人たちとは全く別のところで、強い印象を受けた。それは第一次世界大戦後の過酷過ぎるドイツへの対応に疑問をもち、ドイツ救済のために行動しようとしていたイギリス貴族達が実際に存在していたことに対する感動であった。彼らは後にナチ容認派だったとして没落していくのであるが、ひどい運命の悪戯である。私は彼らにこそ真の貴族性を見た思いがした。
後に第二次世界大戦の研究をするようになって、もう一度彼らの存在に突き当たった。ルドルフ・へスが単独で飛行機を操縦し、英独和平交渉に臨む歴史的事件があるのだが、やはりイギリス側にもルドルフ・ヘスを待ち受ける英独和平熱望派が存在した事実があったということを、この映画は示唆するということだ。ルドルフ・ヘスにしても当然ある程度の前ふりがあってこその賭けだったのだ。
参照:Tel Quel Japon : Rudolf Hessの和平交渉 :
この時期イギリスがRudolf Hessの休戦交渉に応じていたら、その後の世界史は大きく変っただろうと思われる。
///////////////////////////////

追記:2010年5月9日
Gentlemanと執事 (1)

スバル・360

5年程前N先生の奥さんに道で時々会うようになった。市民病院の方に歩いて行かれる。ひょっとしてN先生が入院しておられるのだろうか。
もう40数年どちらにもお目にかかっていない。私は子供から大人になり、大人も後半に入っている。多分こちらの顔はわからないだろう。
じっと見ていると一人でレストランに入っていかれた。孤独なのだろうか。今何歳なのか、計算できない。母よりも年上の筈。となると80歳を超える。が奥さんのお顔は全く昔のままで、30歳?40歳くらいに見える。女の子はなかった筈だ。だとすれば、あの御婦人は一体誰なんだろう。

N内科医院に60?70回入院した。往診は100?200回してもらった。
初めの頃N先生の往診はスクーターだった。しばらくしてスバル・360になった。小さな町では自家用車はまだ珍しかった。
N内科医院は入院患者はとらない。私一人いつも特別入院させてもらっていた。
食事ができるようになると、看護婦さんたちと一緒に本宅に朝食に行った。学校に行ける日は、奥さんにお弁当をつくってもらった。
「うちは息子ばかりだから、女の子の小さな赤いお弁当箱は詰めるのが楽しい」と言って下さった。

小学校2年生くらいから私の喘息はどんどん悪化した。夜中に母に背負われてN医院に行く。母が戸をドンドンするとカーテンがまず開いて、眠そうな看護婦さんが現れる。それから、N先生が叩き起されて・・・。そんなことが何度も繰り返された。

「唇が紫色になっている」
しばらく躊躇した後、N先生はある注射を1mm打たれた。
「これは心臓に負担がかかるから」ともう片方の腕に強心剤を打たれた。
もう死ぬと思っていてもその2本を打つと帰りは歌を歌いながら自分で歩いて帰宅できる。死人が息を吹き返す程のインパクトのある驚異の注射だった。
でもそれは6時間ほどしかもたない。次第に夜道を帰ることがなくなり、そのまま夜中の緊急入院が始まった。
注射を打った後の突然空気が気管や肺に流れはじめるあの快感を今も鮮明に思い出すことができる。痺れるような「生きていることの悦び」を実感できた。

5年程前、N内科医院の前を偶然通ると、N医師の通夜に出くわした。急いで喪服に着替えて出直した。小さなしきびを申し込んだ。翌日も喪服で式に出かけた。本宅の中に入って最後のお別れをしたい衝動に駆られたが、過去にさかのぼり小さな小学生の私に戻って、ただ遠くから父のように懐かしいN医師に両手を合わせた。

////////////
欠けてくっつけてある歯がまたとれた。昨日Sさんに新しい歯科医院を紹介してもらって、早速出かけた。そこは駅前にありN歯科医院と言った。大きなマスクをしている歯科医の顔を、下から目を開けてじっと見たら、子供の頃に見たN医師の顔とダブってきた。本宅に朝食に行った時に、チラリと見た息子さんのどちらかに違いない。「おかずが少ない」と文句を言っていた大学生のお兄さんの方だろうか?半ズボンを穿いていた弟さんの方だろうか!

Gentlemanと執事 (1)

「○○○○さんの家はどこですか?」とあるGentlemanが私に尋ねた。
父の葬儀の前なのか後なのかよく思い出せない。
バッドマスターソン風の出で立ちで、明らかに私の知らない世界の人だった。
その人が口にしたのは祖母のフルネイムだ。
「○○○○さんはこの家の人ですよ」
家のまん前にいた私は家の玄関を指さした。
おばあちゃんにお客さん?あの人は誰なんだろう。

後で祖母に聞いたら、その人は全員東大卒の石原四兄弟の一人、石原長次氏であることがわかった。仕事は全国を渡り歩いて鉱山の売買をする、いわゆる山師。生涯独身なのだそうだ。そのMr.Dandyが、一人息子を亡くした祖母の身を案じて、老体に鞭打ってたった一人で駆けつけた?
石原長次氏は私の祖父の従兄弟。私の曾祖母が石原の出なのだ。
曾祖母が嫁いできた時代は、圧倒的にこちらの方が資産に於いて上だったそうで、釣り合いを取るためにかなりの花嫁道具と持参金がつけられたという。
曾祖母ゆうは二人の男子を産む。長男和三郎は学者を志して、15歳の子供の頃に渡米、淀屋橋の天満屋を継ぐべく次男良三が、期待を一身に集めて育てられた。が若くして未婚のまま日露戦争で戦死。気の毒に曾祖母ゆうは、玉の輿に近い結婚だった筈なのに、その後天満屋は没落の一途をたどる。
石原四兄弟の父は大阪の実業界にその名を残した人物。四兄弟も誰一人死ぬことも無く、日清、日露やその後の戦争にもびくともせずに商都大阪の発展に尽力し、株式会社への制度転換や鉄筋コンクリートのビルディングの建設やら、システムの西洋化の先陣を切り、時代に翻弄されることは無かった。

祖父和三郎を亡くした後、私の父である息子となんとか細々と暮らしていた私の祖母も、B29に家を焼け出され、あげく昭和35年、老齢の身でまだ若い一人息子を亡くすという最悪の事態を迎えることとなったのだった。

B:「長次さんは、おばあちゃんにプロポーズに来たんじゃないの」

「これからどう暮らしてゆくつもりですか。親戚みんなで相談して行く末を考えましょう」と長次氏は言ったらしい。
これは子供の私が聞いたうろ覚えの話なのだが、祖父の亡き後、しばらく長次氏と暮らしたことがあるらしい。塩屋に別荘があって、そこでひと夏。あるいは東京で。再婚など発想することさえ、時代の道徳が許さなかったのだと思う。

B:「おばあちゃんは、病気の孫をほおっておけなかったのね」

仮にプロポーズだとしても、目の前の老人は夫の従兄弟で、その家は栄えて、自分は丸裸の、しかも一人息子に死なれた老女だ。祖母は自分を客観視できたから、首を横に振ったのだと思う。
もっと小さい4,5歳くらいの私は、60代半ばの祖母に毎週のように会いに来ていた、和服を着た茶道教師の恰幅のいいGentlemanを覚えている。もっと若い祖母に長次氏が恋をしていたとしても、何ら不思議ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10年後に入院した祖母は肝臓ガンだと判明した。
あなたに家を教えた孫だと名乗り、私は独断で長次氏に祖母の危篤を伝えた。
「残念なことに病気で身動きがとれない。○○○○さんに、どうぞ宜しくお伝えください」・・・
私はその返事を、すでにガンの相が出ている○○○○さんに手渡した。
手紙を見て祖母は驚いたが、その後、かすかに微笑んでくれた。

///////////////////

現在の石原時計店の建物を取材しているBlogが有ったのでトラックバックさせていただきました。
参照:そのほかの日々 2004年7月15日 :大阪空襲と石原ビル

おまじない

小学校の2,3年の担任は年配で決して美人ではなかったけれど、心の優しい女教師だった。夫と死別して娘がひとり、乳がんの手術をして片方をとっているという噂を聞いていた。
私が4年生になった時、その教師がおまじないの話を持ってきた。私の喘息をなんとか治せたら、という思いやりからだ。
「わかりました。有難う御座います」
母は早速準備に取り掛かった。かぼちゃ様に紙の注連縄を付けてお供えをし「どうか、病気を持って行ってください」とお祈りをする。それを1週間続けて、その後遠くの川にかぼちゃ様を流しに行く、というおまじないだった。
藁をもすがる想いの私は必死だった。そしていつも確信していた。今度こそ、これで治るんだと。
お祈りしている私のそばで、祖母と兄がブツクサ言っている。
祖母「そんなもので治るんだったら、医者は不要だ」
兄「かぼちゃが人間の願いを聞けるのか」
B「うるさい。家族も一緒に信じてお願いしないと、かぼちゃ様がお怒りになる。そしたら、治してもらえない」

祖母は実家が医者で自分は医者の家から船場の大商人の家に嫁いだと言っていた。調剤用のすり鉢やら薬剤計量用の秤等を持っていたし、耳で覚えたらしい薬剤やちょっとした医学の知識もあったから、そういう環境で育ったことは間違いない。そのプライドもあったためか、自分の孫が馬鹿丸出しでかぼちゃに手をあわせている姿を見て、情けなくかつ哀れでならなかったのだろう。...
母の田舎の姉の勧めで、これに似たおまじないを既に2回していた。母の身内の勧めで、白い装束を着たおがみ屋が祈祷に来たことも既に2度あった。その度に母と祖母は微妙に対立する。
托鉢の巡礼が玄関先で経を読むと「待っていて下さいね」と母は財布を取りに家の奥に入る。その隙に奥から祖母が出て来て「宗派が違います」と追い返してしまう。
祖母はクリスチャンなのだ。と言うより祖母の嫁いだこの家が代々のクリスチャンなのだ。後年私が調べたところによると、曽祖父は百数十年前に仲間3人とキリスト教同心会という教会を建てている。父を含め戦前の一族郎党は毎日曜日に集い、賛美歌を歌い、自宅で講演会もする熱心なクリスチャンだったようだ。
父のいた頃は、貧しいにもかかわらず、祖母の提案で大きなツリーを飾って、近所の子供達を集めて、毎年盛大にクリスマスパーティーもした。今から考えると、それはカルチャーの綱引きだったのかもしれない。

7日目の日曜日が来た。私は熱心にお祈りをしていた。
B「かぼちゃ様を流した後は、1度も振り返らずに家に帰らないとダメなんだって」
祖母「聞いたような二番煎じの話ねぇ。忘れて、振り返ったらどうなるの?」
B「そんなことされたら困る」
そこへ、兄がタッタッタッと入ってきて「エーェィ、コンナモノー!」と言いながら、机の上のかぼちゃ様を、なんと足で蹴り飛ばした!!
B「あっ!!病気が治らなくなってしまう!!ヒェッー!病気が治らなくなってしまう!ギャー!!お兄ちゃんの足もバチがあたってきっと腐ってしまう!!ギャー!!」

お茶会

何故その日のことを覚えているのか、自分でも不思議に思う。
父はまだ生きていた。私は3歳くらいか。
祖母がお茶会に私を連れて行くと言う。
母親から分離していない私は、母親と離れたくない。
父親「羊羹かまんじゅうが食べられるよ」
私「本当!!」
羊羹とお饅頭を頭に描いて、祖母に手を引かれて出かけた。

祖母「ここでこうして手を洗うのよ」
言われた通りにする。
祖母「ここを開けるのよ」
私「こんなところから?おばあちゃんもこんなところから入るの?」
面白そうだと思った。でも、泥棒みたい。
中にはたくさんの着物を着た人がズラリと並んでいて、入り口付近に二人分の座布団が空いていた。そこに二人で座る。

「先生どうぞこちらへ。上座のほうに」と言う声があちこちから飛ぶ。祖母が先生で、こんなに多くの知り合いがいるとは、信じられない。別世界だ。
祖母「今日は孫を連れていますので、こちらで」
A「可愛いお孫さんですね。お行儀がいいこと。もう心得がおありなのね」
祖母「いいえ。お菓子に釣られてついてきただけです。そうね、Bちゃん」
私「はい。お饅頭が食べられると聞いて・・・」
一同笑う。
お茶を飲んでお菓子を食べたことは覚えていないが、お茶碗が回ってきたのを覚えている。祖母がお茶碗を手に持ってしげしげと眺めている。何をしているのだろう。私もひっくり返したりして眺める。
あれは「お茶碗拝見」と言って、お茶碗そのものの価値を愛でるのだと、帰り道に祖母が教えてくれた。
食器ではないお茶碗もあるのだと驚いた。
しばらく家中の食器をひっくり返して「お茶碗拝見」をして遊んだ。
そして次の日から、和室の戸を開けずに、小さな窓から、出入りするようになった。兄がそれを真似た。いちいち座って戸を開けるより、立ったままで窓から入るほうがずっと楽しい。

帰りに百貨店に立ち寄る。祖母が木のくまさんのブローチを買ってくれた。それからレストランに。
祖母「Bちゃん、ホットケイキ食べる?」
私「ホットケイキって何をほっとくの?」
バターを塗ってシロップをかけてナイフとフォークをこう持って、こう使って云々。言われたとおりにする。
今日のおばあちゃんはいつものおばあちゃんではない。他にどんな御菓子を知っているんだろう。この人は。

心斎橋筋にまだ、楽器を演奏する傷痍軍人の姿があった頃の話だ。

旧友の死

そのほかの日々(2)「誰だかわかる?(1)」「誰だかわかる?(2)」に登場する針君が亡くなった。中山君と吉田君の3人で御通夜に行ってきた。
帰ろうとしたとき彼の長男に呼び止められた。
「生前の父の写真を見ていってください」
2階に案内された。この長男が生まれてすぐに彼は発病した。20年近くなかば飲まず食わずで生きてきた。
しかし写真を見て少し安心した。眼帯をして顔を覆っている彼の両手にうれしそうな二人の子供たちがいた。父母も含めた家族写真も多い。彼は家族の愛に支えられて、苦痛にも悔しさにも長い間耐えてこれたのだ。救われた思いがした。
今夜は高校時代元気だったころの彼を一杯思い出そう。
病気がちだった私を陰になり日向になりずっと支えてくれた。親友の姫神さんが以前彼のことをこういった。
「さすがにBruxellesちゃんを長くエスコートしてきた子だ。ひるまずでしゃばらず、支配せず暖かい。女性の扱いはお見事。」そういえば彼に不満や居心地の悪さを感じたことは一度もない。控えめな男性だったけれど、彼はぴか一ハンサムでもあった。「ありがとう、針君」来世があれば、また友達でいてくださいね。Bruxlles
////////////////

  Cheb Mami 「Allez les Africains」

Stupid Cupid (2)

Stupid Cupid (2) 2005年2月10日 (Thu) 18:52:29 STUPID CUPIDの演奏を聴く

一番近いからと選んだ高校。それでも電車通学でしかも駅から遠い。先輩の田中さん、福島さん、同学年の臼井さん、その他登校途中で話し合うようになった友達もいた。ある時臼井さんが、苦しい胸のうちを打ち明けた。・・
「山崎君なの?その想い人は」「そう」
そういえば山崎君も2,3日前何か臼井さんのことを言っていたような気がする。
「臼井さん、その話うまくいくような気がする。山崎君は友達だから、私から伝えてみる。期待して待っていて」
1時間目が始まる前に山崎君に伝えた。・・
その夕刻、二人は会い、手をつないで帰った。

以前一度山崎君が珍しく遅刻した。
「どうしたの今日は?」「裁判所からの呼び出し」
「また何故に?」「バイクの無免許運転」
おとなしい子なのに、そういう面があったかと、その時思った。顔を見ると目が鋭い。トンガッている。
でも臼井さんと付き合い始めて恋する少年になった彼は、ソフトに丸くしっとりと落ち着いてきた。ただ翌年の受験、さらにその翌年の受験にも失敗した。その間も臼井さんはずっとそばにいた筈だ。月に1,2回、二人してよくわが家に遊びに来た。帰るときには彼女のコートのボタンを彼がとめ、マフラーも彼が彼女の首に巻いた。

その時彼は3浪目に入っていた。ある日「相談がある」と一人でやって来た。うまくいっていない、もうダメだ。限界を超えた、と彼は言った。「気分転換に阿倍野に出よう」
近鉄百貨店の北面を西から東に歩いた。今の「新宿ごちそうビル」を2,3百m過ぎたあたりだった。
「ちょっと、お二人さん、どこへ行くの、待ったぁ!」と後ろで大声がした。

家に帰って祖母に聞いた話だ。山崎君と私が家を出て5分もしないうちに臼井さんが、それは険しい顔でやってきた。
「山崎君ここにいませんか!!」「たった今、二人で出かけ」
全部も聞かずに戸を開けたまま血相を変えて立ち去ったという。

山崎君と私はビックリして振り向いた。
臼井さんが山崎君に駆け寄り大声でいきなり彼を罵った。
「私を捨てて、Bruxellesさんと・・・」
「Bruxellesさんに失礼なことを言うなよ」
激しく口論している。すると目の前で彼が彼女をビシャリと平手打ちした。なんてことを、と止めに入ろうとした0.1秒の間に、今度は彼女が彼をバシィッとビンタした。私はその激しさに2,3m後退りする。また彼がビンタ・・、するとまた彼女が・・、また、すると、。二人が疲れるのを待って、離れたところから言った。
「あの?。気が済むまで殴り合ってもいいけど、私はそろそろこの辺で帰らせてもらう」

家に帰ると珍しく兄が出てきた。
「臼井さん山崎君と会ったか?どうなった?」
「近鉄百貨店の前で、今ビシバシ二人激しく殴りあってる」
兄「・・力は山を抜き気は世を蓋う、時に利あらず、ウスイ逝かず、ウスイの逝かざることを如何にすべき、虞や虞や若を如何せん・・」
B「馬の話じゃない、それにそれはウスイじゃなくて、(スイ)でしょう、もう」
/////////////////////////////////////////

「Ma cabane au Canada」 par Line RENAUD
この曲をはじめて聴いたとき驚いた。何に驚いたかといって、そのテンポにである。

Stupid Cupid (1)

Stupid Cupid (1) 2005年2月9日 (Wed) 18:23:18
STUPID CUPID(KARAOKE)を聞く

高2の時の仲のよいグループ4人組はクラスメートで席も近かった。お正月は山崎君の家に4人集まったこともある。国末君のお父さんは他の高校の英語教師で偶然、亡くなった私の父の大学の同級生だった。もう一人は針君。4人で来年の受験の話もするようになった。それで藤本美智子から横取りしたFKと会う時間がもう無くなった。FKはしきりに誘ってきた。
それでFKと二人で映画に行った。確か「わらの女」という映画だった。その帰りに喫茶店に入って、こう切り出した。
B「もうあんまり会えない。誰か、好きな男の子、いないの?」
FK「いる」一年先輩の蒲鉾屋さんの息子さんだった。
B「わかった。明日話をつけてくる」・・・
意を決して3年生の教室に行った。武井さんを呼び出してもらって廊下で会った。「はじめまして。実は・・」
これで失敗すると私は藤本美智子に顔向けできない。緊張した。

FKから楽しい報告が来た。武井さんの友達も含めてグループでキャンプに行ったり、ハイキングに行ったりカップルは快調にスタートを切った。とてもとても嬉しかった。ただ翌年武井さんは受験に失敗してしまった。その翌年FKは看護学校に進学した。

卒業してからバラバラになってFKのことを完全に忘れかけた頃に、武井さんが私に連絡して来た。「彼女がBruxellesさんに会いたがっています」そう言って車で家まで迎えに来てくれた。
彼女の家に行くと、お父さんのお通夜だった。とんだ再会だったけれど、こういうかたちで私を信頼し、そしてまだ必要としてくれる気持ちが嬉しかった。彼女は看護学生らしく、微にいり細にいり、お父さんの手術の様子を話した。何か伝えたいという気持ちがよく伝わった。

何年かして彼は仕事の都合で名古屋にいった。
それからまた何年かして、二人に呼び出された。
「いよいよ結婚するので、キューピットのあなたに結婚式の司会をしてほしい」ということだった。
FKの人生をそこまで見届けることができるのは最高に嬉しい。帰りに「結婚式の司会」という本を買った。これで何かFKにも藤本美智子にも責任を果たせるような気がした。

「本日はお日柄も好く、○○ご夫妻のご媒酌により・・・・」
客人席には、高校時代の顔見知りも何人かいたし、彼女の友人の看護婦さんたちも、私のことは話に聞いてよく知っているようだった。
ピアニストも元同窓生だ。お色直しご入場の時に「愛の賛歌」を弾いてもらった。そして、ブレンダ・リーが歌う英語の歌詞で、歌わずにメロディーに乗せて朗読をした。
 ♪ If the sun should tumble from the sky
If the sea should suddenly run dry
If you love me really love me
Let it happen darling I won't care ♪
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
式が終わると、その夜「詩と思想」の座談会があったので、フォーマルスーツでその足で、新幹線に飛び乗った。

//////////////////////////////////
「Poupee de cire, poupee de son」 par France GAL


«  | HOME |  »

2017-08

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

Bruxelles

Bruxelles

FC2ブログへようこそ!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。