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お酒と煙草

お酒と煙草 2005年4月20日 (Wed) 18:17:57

いつから禁煙したんだろう。7年位前からか。禁煙には何回も失敗して、もう無理だと半ば諦めていた。もともと意志薄弱である。

まだ吸いはじめの頃、セブンスターを一気に一箱すって卒倒したことがある。クラクラと意識不明になる。一過性の脳梗塞に近い。頭の指令が身体のどこにも届かなくなる。ヨダレを流して崩れ落ちた。

コンスタントに吸い始めたのは20才を過ぎてから。ジャズ喫茶に通うようになってからだ。女の子の主流はショートホウプ。”短い希望”を灰にするのだ。マイルスやコルトレーンを聞きながら。ホットミルクを飲みながら。男子学生はセブンスターかハイライト。マイルドセブンはまだなかった。ものは試しだとその後いろいろ吸った。ピースだけは敬遠した。ピースを吸っている女性を見たことはない。”平和”を灰にするのは、似合わない。
インドのホテルで買った煙草はビックリするほど高額だった。インドには本当に”葉っぱ”としか思えない煙草もあった。エジプトで気に入ったのは、黄金色のケイスのCleopatra。これはかなり気に入ってしばらく続けた。味もよかった。
フランス製で有名なのはゴロワーズとジタン。どちらもしかし女性が吸いたい煙草ではない。毎日キオスクで違う種類の煙草を買った。今日は○○、明日は××と銘柄をカセット日記に吹き込んでいた。「一番軽いのは何?」とロジェに聞いたら「ROYAL」じゃないかという返事だったので、最後は「ROYAL」に決めた。吃驚するほど軽い、確かに空気のような煙草だった。
・・・

お酒は定番どおり角とダルマから入った。時にカティーサークでコークハイやハイボールも作って飲んだ。ビールは泡を喰っているようで昔から一貫して好きではない。BruxellesのROSEの店の向かいに住む老夫婦の家に招待されたことがある。大事そうに出してきて封を切ってくれたのはシーバス・リーガルだった。夜のpartyに出るようになってからはスコッチを飲むようになっていた。とはいえ和食だとやはり日本酒も好んだ。・・・
園芸会社で働いていた頃、隣の医学系専門誌の出版社に、Kという男性がいた。父と大学が同期だということはわかったが、直接の知り合いではなかった。「どんな人だったか、友達に聞いてみよう」ということになった。「君のお父さんのこと聞いたよ。黒木に」貿易課でもNO.1の英語使いだったと、褒めてもらえると期待した。ところが「戦争中の若い頃、会社の地下室でエチルアルコールかメチルアルコールかで酒を密造して飲んでたらしいね。おもろいヤツやなあ。あはははは」娘の前で、それはないでしょ!
ある日このK氏に飲み比べをしようと誘われた。いつも発散しているので、飲むとかえってシラフになるクチなので、お酒は好きでもなければ、決して強くもない。お調子の乗りなだけだ。和食の店で食事して徳利を倒していった。10本揃えて寝かせて並べたのは、私のほうが早かった。その時は何故だか全然酔わなかった。
話はそれるがアル中気味の人とか、私のように薬中気味の人は、麻酔が時間前に切れる。私は早々と麻酔が切れて、火箸のように大きな金属の棒が、膝の先から大腿骨の中に金槌でカンカンと打ち付けられる毎に、悲鳴を上げなければならなかった。その後、ブスリと針をさして糸を引っ張って縫合している時も痛さで状況がありありと見えた。あまりの痛さで手術後もブルブルガクガク全身が震え続けた。

アブサンを飲んでいたのは、ほんの一時期で、スコッチやコニャックの後は、バーボンに乗り換えた。バーボンは体質に合ったようだ。憧れはジャック・ダニエル。でもこれも一通り飲んだ。ワイルド・ターキー、アーリー・タイムズ、ジムビーム、I.W.ハーパー、フォア・ローゼスなどなど。でも今から思うと、わざわざ買ってきて家でまで何故飲んでいたのだろうかと思う。外でも家でも飲む機会があまりに多すぎた。おかげで、酒席にも、お酒にもpartyにも、すっかり飽きてしまった。今は、山奥で木々に耳を当てて、樹木と対話している方がよっぽど楽しい。

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「La guinguette a ferme ses volets 真夜中の居酒屋」par DAMIA
ヴァルス・ミュゼット。これぞシャンソンという曲調と歌詞。歌詞はまるで映画だ。


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原稿用紙

原稿用紙 2005年4月18日 (Mon) 17:48:38

青木氏から再び電話があった。結局「海とユリ」の創刊号と4号が欲しいということだったので、差し上げることにした。

「海とユリ」以前、私は神戸の風群文学界に所属していた。その頃文芸評論家のO氏に「校正者が校正しやすいように、それなりの原稿用紙を使うように」とアドバイスを受けていた。つまり、よく出回っている、コクヨ、ライフ、スパルタ製は、校正スペイスが少ない。以後ちょっとした原稿にはマルゼン製を使用するようにした。
「海とユリ」4号を見ると、五十嵐ビルに出入りする中学生の少年が、集まった皆の原稿用紙をすっぱ抜いている。
東京フレーベル製は勿論原田さん。日本放送協会用や詩人会議用を使用している人もいる。マスヤ製、神楽坂・山田製というのもある。コクヨ党と書かれた人達は、ちょっと気の毒。しかし一番多かったのは自家製。自分の名前入りの特別原稿用紙で書いておられる。驚きだ。

まだ、バイト生活中の頃、貯金をはたいてモンブランの高級万年筆を買った。その万年筆で「帰ろう愛の天使たち」を書いた。書き味は良かった。後年英会話講師になって、まだバイクで通っている頃、走行中に筆箱からその万年筆が飛び出して、カゴの網目を通って、路上に消えてしまった。ショックだった。それから、万年筆は安物しか買わない。
例の河口湖の別荘にやってきた集英社の編集部員の人が、私のモンブランを見て「それは川端康成先生が使ってらしたのと同じだ」と言った。確かにどんな文豪が使ってもおかしくない、風格のある高級感漂う万年筆だった。
1ドル360円の時代2万円だった万年筆。しかもこのデフレ時代を考慮すると安くなっているかも知れないと、2年前のある日ふと思った。海外旅行の帰りに買った、カミュナポレオンが当時2万円。今5千円。とすると、あの万年筆ももしや。それでも2万円用意して百貨店の文具コーナーに走った。
特別扱いの棚に8万円の値札を付けて、それは王者のように君臨していた。万年筆は卵じゃない!
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「L'absinthe」  par Mathieu ROSAZ
BarbaraとFrederic Bottonの共作歌詞に素敵な曲。昔粋がって緑色のアブサン酒(とても口当たりがいい)を飲んでいた。印象派の画家たちも皆しきりにAbsintheを飲んだらしい。ただAbsintheは目にくる。印象派の画家の絵の輪郭がかなりぼやけているのはそのせい、等とは断言できないけれども。


稲垣足穂

稲垣足穂 2005年4月17日 (Sun) 17:55:39

クリーナーでガーガー掃除をしていると、電話が鳴った。「もしもし」でたいてい声を聞き分ける自信があるのだが、思い出せない。
「『海とユリ』でご一緒だった札幌の青木です。Bruxellesさんご本人ですか?『現代詩手帖』の年鑑でご住所を見て、懐かしくて電話しました。一度お目にかかったことがあります」
覚えている。大和留寿都で山頂から転げ落ちたとき、帰りに札幌でお目にかかった。すぐ後手紙が来て神田神保町界隈の少年たちが、Bruxellesさんのことを、B姫と書いているので、どんなお姫様かと思ったら、会ってみたら、姫様のイメージなどない・・」と、かなりボロクソに書いてあった。よほど悪い印象を与えたに違いないと苦笑した思い出が残っている。そのことを言うと「僕そんなこと書きましたか?B姫と書いたのは覚えていますが」とちょっとドギマギされている。「あの時、札幌で踊る場所がないかと、聞かれたのは覚えています」
上から下まで転落して全身打撲だから、まさか「踊りたい」と思う筈は無いのだけれど、なにしろ30年程前のことだから双方とも記憶はあやしい。
「僕は実は古物商もしてまして『海とユリ』創刊号に芦野さんが書かれていた稲垣足穂の写真、のことで芦野さんに連絡したのですが電話が不通なんです。もう亡くなられましたか?」「いいえ、いいえ。ここ数年手術や入院を繰り返されて、体調は思わしくないようですが」「種村季弘さんが亡くなられたものだから、ふといやな予感がしましてね」・・・

『海とユリ』創刊号を引っ張り出してみる。青木氏は瀧口修造亭や種村季弘宅に出入りしている方のようだ。種村季弘邸は禅宗のお墓の裏にあるらしい。種村氏が荻窪に「画廊人魚館」をオープンしたと書いてある。

あの頃、つまり創刊時、バイクに熱中されていた芦野氏はツーリングを兼ねて、足穂を訪問されたのは私もよく知っている。今、創刊号を見て、驚いた。創刊号表紙絵・稲垣足穂とある。おまけに扉には、足穂自筆の説明文まである。「これはボクにはアッという間に過ぎた明治風景です」と。灯台の絵だ。古物商の青木さんが足穂の写真と言われたのは、この絵の間違いか。いずれにせよ、古物商の食指が動く筈だ。

病床の芦野氏のことに思いがゆく。昔上京した折は、神保町の五十嵐ビルに、いつも立ち寄って、そのオフィスを自分のkey baseのようにさせてもらっていた。話さなくてもすっとわかりあえる。そして話せば、誠実さが滲み出る話し方をされる。もっと前「抒情文芸」に「絵巻物」という小説を発表されていて、Bruxellesはその作品にすごく惹かれた。私はまだ20歳にもなっていなかった。私が会う前に京都の瀬崎祐氏が先に芦野氏に会った。「どんな人だった?」「黒川紀章みたいな、というか」「ふーうん」
芦野氏は当時詩誌「秘夢」というグループのリーダーだった。芦野氏には他のペンネイムもあって、少年少女向けとは別に「薔薇族」「アドニス」「ムルム」その他にも発表されていた。五十嵐ビルには、感性の柔らかいまだ子供のランボーやベルレーヌが出入りしていた。今から思えば、三島由紀夫の「禁色」の一場面の様だったかもしれない。「海とユリ」の創刊で初めて同じグラウンドに立ったのは、それよりかなり後だ。あれは本当に必然だった。そこには原田さんもいたし、一時はGribouilleもいた。

創刊号に稲垣足穂の当時の近況が出ている。「火災のため、しばらく桃山町本多上野の知人宅におられたが、10月9日新宅の棟上を行い、年末には完成の予定。最近刊行の短編集「青い箱と紅い骸骨」(角川書店)にはカラー印刷で四葉の絵を収蔵している」とある。ということは、他にも原画があるということなのだろう。
去年「海とユリ」が神田の古書店で2.5倍の価格がついていると聞いた。このことが原因なのだろうか。
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「Place Vendome」 par Christine AUTHIER


ツーショット


ツーショット 2005年4月15日 (Fri) 19:11:39

八幡市の病院に入院していたおよそ180日間に、TTは大喜びしたためか、何故か、120日お見舞いに来てくれた。2番目のCCの90日を大きく上回る。あまり来るので同室の人がある日突然「この人の婚約者なのですか?」とTTに聞いた。TTはギクッとして「まあ、そんな者です」と答えた。TTの面子を立てて私も否定はしなかったが、そんな者でもどんな者でもない。他の見舞い客もたいていTTとは鉢合わせするので、何か特別の人のように誤解していた人は多かった。あらぬことを妄想されても困る。
・・・・・

かなり古い話だ。プラットフォームのベンチに座っていた。そこへ旅行カバンを抱えた男性Aがやってきた。私に背を向け煙草をふかせて電車を待っている。なかなか恰幅がある。そこへ、向かいのプラットフォームから、若い男性Bがニコニコして回りこんで走ってきた。なんだかペコペコしている。「部長、これからご旅行ですか?」、二,三言葉を交わした後、Bはいきなり私とAを交互に見て再びにやけた。僕は部長のお忍び旅行の現場を押さえたぞ!と、勝者の態度で部長に笑いかける。部長は何のことか、なんなんだこの態度はとドギマギしながらも、Bの視線の先の私の方をチラリと見る。部下は私に目礼をして目で部長に言う。「黙ってますよ、部長」部長が目で訴える。「知らない人だよ」部下が追い討ちをかける。「またまた、しらばっくれて」・・・
男性Aと私は、話していたわけでも、寄り添っていたわけでもない。たまたまプラットフォームに二人だけしかいなかっただけだ。私が出て行って弁解するのもおかしい。かといって、私がそっと遠ざかり誤解を解こうとするのも、かえっておかしい。・・

全く知らない人と、たまたま近い空間にいただけでこのように妄想されることが世の中にはある。部長と部下は二人してこちらを眺め、小声で少し言い争って、その後男性Bは、部長にたしなめられて、真っ赤に恥をかいて「失敗した」という文字を背中に貼り付けて、退散していった。
たとえどんな人であろうと、誰かを通して、誰かと関連付けて自分を見られるのは、とても嫌だ。ツーショットでセットで見られ関係を憶測されることを、うれしいと思う人などいないと思う。少なくとも私はとても嫌だ。吹聴されたりしたら、さらに嫌だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「Tu n'en reviendras pas」 Marianne Oswald

She has gone.(4)

She has gone.(4) 2005年3月25日 (Fri) 18:49:46

本当に気まずい夜になってしまった。しばらくして落ち着いたところでChanが自分のことを話し始めた。ボストンに来てガールフレンドができたけれど、基本的にアメリカ娘には色気を感じないと言うこと。やる時は、頭の中でいつも顔を入れ替えているんだよ。男はみんなそうするんだ。女だって,そうする時もあるんだろう?実はね先生、僕高校2年の時から、ほとんど毎日、女とやってたんだ。同級生の子で、受験勉強のために学校の近くに彼女は自分の部屋を持っていたんだ。毎日帰りにそこに立ち寄って。そう。一緒にすることはひとつだけだよ。ブレーキなんか効く筈がない。卒業と同時にそれは終わった。二人とも、やりつくしたんだよ。

Chanはハンサムでもスマートでもない。けれど他の子と何か違う。それは、高校2年間の性の実績に違いない。人生の若き日々は、その体験は、肉体に刻まれ、隠しようもなく人の歴史として、残るものなのかもしれない。

Chanが話し続ける真夜中の時間に2度Mr.Brownからの電話が鳴った。2度ともChanがとり「She has gone」と応答していた。
         ???・ーーー

明け方、うとうとと眠った。モーテルを出ると,寝不足の目に太陽が眩しい。道順は覚えていないが、Chanが自分のアパートに案内してくれた。1部屋はドラムセットが占拠している。そこで初めてwalkmanを耳に当てた。「こんなに小さなケイスから、こんな鮮明な音が再生されるのね、驚き!」
「先生、僕と初めて会ったとき、ブッカー・アービンやマイケル・マクドナルド、マハビシュネ・オーケストラ、ピンク・フロイド、やキング・クリムゾン、マイケル・ノイマンなんかの話をしたんだよ、覚えてる?」
「クックッ、覚えてない。多分、レコード・コレクションの中から、あなたに合いそうな話題を選んだのね、きっと」
「これやってみる?」
引き出しから、マリファナを取り出した。
「タバコよりも害は少ないんだよ」
「私は普段飲んでるお薬だけでもう充分自己加害しているから、いらない」
煙を出して、ドラムを叩いている。この子は何を求めてボストンにいるのだろう。朝食のとき気づいたが、完全菜食主義者だ。レーモン・チャンドラーからとってChanという。これは以前にも書いたが、私はつくづくと彼を見てチャンドラ・グプタ?世から、チャンドラ・プク太、プク太と彼のネイミングを変えた。ここから、どうやってjazz musicianになるんだろう。競争の激しいjazzの本場で。「薬を止めさせないと、あいつは駄目になる」とBicketが言っていた。彼は未来に何を見据えているのだろう。傷ついて、いたたまれなくて、音に救いを求めて、東海岸にたどり着いた、彼も、もう一人の繊細孤児なのだろうか?
「日本から、何か本、送ってあげようか」
「僕、筒井康隆がいい。大好きなんだ。先生も読んでる?先生は誰が好きなの?」・・

夕方「Presidential」のロビーで、さらなる外国から帰ってくる連中と合流することになっている。
            ???・???

帰国して、荷を解いて、しばらくして、住所を聞くために彼の実家に電話した。お母さんが出た。
「あ、先生のこと、日本に居る頃、息子が毎日毎日私に、話していましたよ。素敵な先生だって。息子は大変尊敬しておりました。お手紙書いてくだされば、息子も大喜びします。これからも、どうぞよろしくお願いいたします、、」
あっけにとられた。Chanのイメージが180度回転する。優しさと、愛に溢れた母親の声だっ
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 「L'Atlantique」par Pierre BACHELET et Veronique JANNOT


僕は先生の生徒じゃない!(3)


僕は先生の生徒じゃない!(3) 2005年3月22日 (Tue) 18:47:16

Chan「あー、僕は裏切られた、ショックだ。こんな女(ひと)だったとは・・。夢と希望の風船がいきなり弾けたみたいだ・・」
B「誤解よ。食事していただけよ」
Chan「タンスの中から出てくるかい?」
B「誤解されたくなかったから、、つまり」
Chan「食事だったら食事を続ければいいんだよ」
B「状況的にね、、、ちょっとまずいと思って。立場上。クックックッ、、、でもね、クックックッ、これって本当に大コメディーね。クックックックッ、、」
Chan「よく笑ってられるよ。どうしてくれるんだよ。天地異変で、すっかり言うこと聞かなくなったよ」
B「それでいいのよ。でもどうしてここがわかったの?どうして来たの?何故来たの?」
Chan「僕としては千載一遇のチャンスだよ。電話帳で住所調べて、タクシー飛ばして来たんだ」
B「ああ、そういえば、Bicketに電話して、ここの名前を言ったから。Bicketに聞いたのね」
Chan「あいつの顔が目に焼きついて、一生のトラウマになったら、どうしてくれるんだよ。まさか、先生にこんな目にあうとは」
B「Chanが無茶苦茶なのよ。いきなりだもの。あの人に気の毒よ。吃驚したでしょうよ」
Chan「僕が来なければ、、あいつと・・」
B「違う違う。あの人は敬虔なイスラム教徒よ。私は一人の夜がほしくて、ここに宿を見つけてもらったのよ。今日一日デイトの約束があって、食事が終われば、彼は家に帰るのよ。あの人じっとしていたでしょう。悲しそうな目をして。傷ついたのは、あの人よ」
Chan「本当言うと、外から見えてたんだ。二人の影が映ってたんだ。他に誰かが居るって知ってた」
B「それで、いきなり抱き上げて、押し倒したの?だから、こんなとんでもなくまずい羽目になるのよ。あー、どうしよう。今日はこのまま、語り明かすか、飲み明かすかしかないわね」
Chan「僕に会うのを楽しみにしてるって、Bicketが先生からの伝言だって、僕に言ったんだよ」
B「それくらい普通に言うことでしょう。こういうことは夢にも期待してないわ」
Chan「僕はずっと期待してたんだよ。それも初めて会った時から」
B「あー、あの階段の下で、Bicketが紹介してくれた時のこと?Chanは少し、他の子とは違ったわ。でもね、年下の子を恋愛の対象としたら、それは未成年誘惑罪で、それは犯罪なのよ」
Chan「僕は未成年じゃないよ」
B「生徒を相手にするなんて、よくない」
Chan「僕は先生の生徒じゃないよ」・・

Bicketは4人で2台の車で空港近くのホテルまで迎えに来てくれた。その中にChanがいた。Chanは日本にいた時Bicketのもうひとつのクラスの同級生だった。一度「僕の先生」と言って私をChanに紹介してくれた。「僕もこんな先生だったらいいな」と、すぐにChanが言った。「あなた、セクシーね」「先生の方こそ」そういえば、初対面のときそんな会話を交わした。・・
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      「Mourir Demain」 par Gribouille
2004年「Mourir Demain」がヒットしたとき、一瞬Gribouilleの曲がリバイバルしたのかと思った。    


六波羅蜜:忍辱

六波羅蜜:忍辱 2005年3月20日 (Sun) 19:05:48

仏教には布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの修業項目、六波羅蜜がある。辱めに耐えるというこの中の忍辱、当世一番重要なことかもしれない。しかし、さほど価値のある修業なのだろうか?

自尊心を打ち砕き和を持って尊しとなす過程で、能力は育たず、visionは持てず、歪な人格をあるいは人間関係を嬉々として甘受する、まるで人格を人口呼吸器に繋がれたように生きる愚民を育成してしまう危惧はないのだろうか。

侮辱を甘受することは、自分ひとりの個人の問題ではない。親兄弟、親戚、故郷、国家、大げさに言えば、人類全体にも、同時に自分が二次甘受させているのだということに、気づかねばならない。

宗教、政治、教育は時に三位一体となって、強固な、広く深い意味で、人間にとってマイナスにしかならない為政者サイドの価値体系を、形成し強要する。
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「Mourir Demain」  par Natasha St-Pier & Pascal Obispo
(avec Frederic Chateau a la guitaire accoustique)

Bicketと連絡がついたよ!(2)

Bicketと連絡がついたよ!(2) 2005年3月17日 (Thu) 19:11:12

教室に居ると、男の子が入ってきた。
「あら、あなた、今日が初めて?」
「朝と夕方と両方来ることにしたんです。近々留学するので。特別コース」「あなたラッキーね。ここの先生美人よ。ところで何の留学?」「とりあえずは語学。ゆくゆくはミュージシャンに」「じゃあ、バークリー?」「そう」
細身長髪の大学生。親に反対されたけれど、アルバイトでお金を貯めて押し切って出発するのだという。一人息子だ。叔母さんがボストンに住んでいて去年の夏休みにすでに2ヶ月滞在してきている。写真を見せてくれた。プールもサンルームもあるアメリカンライフという写真。弁護士の家らしい。
そこへ別の生徒が入ってきて言った。
「先生なんだか今日は楽しそうですね。昨夜いいことあったんですか?」すると新入生がオーバーアクションで仰天した。
「先生!自分が!!その美人の先生って!アハハハハハ、アハハハハ、美人の先生って自分のこと、アハハハハ、アハハハハ」仰け反ったり、お腹を押さえたり、おもちゃの水飲み鳥のように忙しい。
「そんなに笑ったら、腸捻転になるわよ、もう、失礼な人ね・・」
「先生!自分が!!ガハハハ、ガハハハハ、、、苦しい?」
一人で延々と笑っている。バイキングビッケに似ていたのでこの19歳の彼にはBicketという新しい名前を付けた。ミナミの居酒屋の2階で行われた送別会にも招待してくれた。いつもpositiveで機嫌のいい、よく笑う子だ。

そして今回の7人の滞在の1泊目は、とりあえず、このBicketの親戚の弁護士の家に決まった。それ以後は未定。航空券は出発当日、見送りついでに、伊丹で各自に発券屋から直接手渡された。ミンミンの知り合いのエージェントだ。往復航空券のみで一人25,6万渡したように思う。1ドル260円くらいだったろうか、よく覚えていない。少し高い気もしたが、私も他の6人も、あまり深くは何も考えない。何に乗っていくかも、直前に初めて知った。大韓航空の直行便だという。
Bicketには「泊めて頂戴」と電報を打ったら「いいですよ。到着時間がわかれば、車2台用意して空港まで迎えにいきますよ」という、まあ嬉しい返事がすぐに返ってきた。だから伊丹空港で皆でお金を出し合ってRyan氏にお土産を買った。

旅立つ前にNew Yorkのことを少しだけ調べた。危険度別ゾーンマップも入手した。人をまとめていく気はさらさら無いにしても、もしかして一人や二人事件に巻き込まれて、怪我をしたり、殺されるかもしれない。それで「原則自由行動なので、各自プランを練るように。保険に入るように。行動は自己責任で」という文書を配布して誓約書を取り付けた。早速サインした皆の分が集まった。たった一枚の紙切れで皆の態度がガラリと変わり、パスポートやビザや旅行保険や、それなりの手続きも各自でした。
佐野君、原口君、パッシェルの3人は、出発当日の空港で、そういえばそれが初対面だった。

「もう一回電話してみて」とミンミンに言われて、ホテルから4回目の電話をRyan邸にかけた。初めて繋がった!!「そちらにBicket,いえ、西田宏という日本人は居ませんか」と切り出した。「YES」!!「Bicketと連絡がついたよぉー」と叫ぶと、電話機を取り巻いていた6人から、期せずして拍手と歓声が沸き起こった。
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Patricia KAAS 「Une fille de l'Est」

「Allo Allo」(1)

「Allo Allo」(1) 2005年3月12日 (Sat) 18:09:45

やっぱりいない。20数時間も遅れたら当たり前だ。ケネディー空港、1階も2階もくまなく探す。往復の航空券だけを買って何の予約も計画もしていない。大型のレンタカーを2台借りて連中が待ってくれていた筈だ。諦めきれずにそれでも探す。意気消沈とはこのことだ。がっくりきている。おまけにこちら側の彼らには荷物もない。機内に積み込んだ荷物は一足先に到着して倉庫の中に入ってしまっている。今日は日曜日なので、明日にならないとその荷物とも再会できない。7人のうち4人は初めての海外旅行だ。伊丹空港には、7人に対し7人以上の見送り人がいて盛大に出発してきた。
佐野君のお父さんは三宮の名物の「えびら飴」を皆に配っていた。「えびら飴もらいましたか?」と聞かれて「海老ラーメン?」何のこと?と思った。妙に印象に残っている。ECCのクラスのMEG夫婦は見送りのためだけに。天草と田中君(Rod)にはそれぞれgirl friendが。天草の父、つまり私の従兄もやってきて天草に電子翻訳機を渡している。パッシェルには妹のミッシェルとお母さんが。メンバー間にはたいして横の関連はない。「ニューヨークに行きたいな」という話を誰かがクラスでして、それに天草が外部から加わって、途中で引っ込みがつかなくなってしまった。クラスからの参加者はミンミンとRodの二人だけ。ミッシェルはクラスの生徒だが、ミッシェルの代わりに姉のパッシェルが参加した。誰が名づけたか知らないが、ミッシェルの姉でパッパラパーに見えるからと、その女子大生の姉は即座にパッシェルと名づけられた。ミンミンは別にセミでもギョーザ屋の子でもない。非常にまじめなのに、どう見ても遊び女に見えてしまう妙齢の女性だ。佐野君は天草の大学のクラスメイト、原口君は天草のお父さんの仕事関連の若い大工さんだった。佐野君のお父さんが、少し年配のMEGの所に挨拶に行った。「息子のこと、どうぞよろしくお願いします」MEG「私、見送りだけです。先生はあちらの方です」佐野君のお父さん、MEGが指差す私の方をチラッとみて、どう思ったのか、動かなくなってしまった。

「とにかくホテルを探してください」とミンミンが電話帳を持ってきた。電話をすれば空港近辺のHOTELから迎えの車が来る。それを電話で呼べというわけだ。気が進まないが、明日の月曜日荷物を倉庫にとりに来なければならないので、とりあえず空港近辺で一夜を明かすしかない。着いたばっかりで足止め。電話機を手に取る。「もしもし、今夜一泊、7人です。・・」
「先生、今、Allo,Alloって言いましたよね」えェ??「ここはアメリカ、ニューヨークですよ」
しまった。英会話の講師が無意識とはいえ生徒の前でAllo,Alloと言ってしまった。こういう時に限っていい耳をしている。
言われたところで待っていると迎えの車が来た。電話も車も当然無料だ。ホテルに着いた。女3人はツインルームに簡易ベッドをひとつ入れた。じゃんけんをする。私の負け。簡易ベッドだ。このパターンはその後も延々と続いた。「どうして私ばかり負けるの?」「だって先生、チーしか出さないもの」(読まれている)荷物と離れ離れの気の毒な人達のために、パンティーやサプリメントや、タンポンを配給してあげる。私はいつも機内荷物を持たない。その割りに手荷物から何でも出てくるので、パッシェルはそれを魔法のBagと名付けた。(つづく)
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「Au pays des merveilles de Juliet不思議な国のジュリエット」
           par Yves SIMON
昔この人の「カルチェ・ラタンの孤独」というアルバムを持っていた。この人もNicole Louvier同様、小説「虹の男」「彩られた日々」でまず注目され、後に俳優デビュー、歌手デビューした。ソルボンヌで文学を専攻し、、もろ五月革命を、ヒッピーのハートを、体現していた人。


国会図書館蘆原コレクション(2)

国会図書館蘆原コレクション(2) 2005年3月1日 (Tue) 18:56:28

2枚目は大好きなのにCDもテイプもレコードもない、ALAIN BARRIEREの「Tu t'en vas」をリクエスト。この歌はALAIN BARRIEREとNOEL CORDIERのデュエット。これはいつ聴いてもいい。大人の男と大人の女、を感じたものでした。レコードはALBATROSから出ていた。確かこれが彼が設立したレーベルだったような気がする。曲想でいえば(歌詞ではなく)「思い出のサントロペ」の感じでしょうか。シャンソンにしかないでしょうね、この感じ。このB面は「UN POETE」。ALAIN BARRIEREはいつかBIOも調べてみたい歌手の一人。たしかこの曲の大ヒットのあと、嫌気がさしてやめちゃったような記憶あり。アメリカ男にはないフランス男の色気があるひと。Joe Dassinの「L'ete Indien」と共に自信を持ってお勧めできる曲。

さて最後の3枚目は雀躍しました。このサイトの初めのころのBBSに書いた1953年のDEAUVILLEのコンクール、の入賞曲からなる分厚い、昔竹や針金で聴いたようなレコード盤が登場。タイトルも「DEAUVILLE1953」。蘆原英了氏解説キングレコード発売。A面1番目はグランプリ曲の「Qui me delivrera?」歌うは、作者本人のNicole LOUVIER!!(コンクールではノエル・ノルマンが歌った)。邦題は「誰が解放してくれるの?」Nicoleは1933年6月23日、PARIS生まれ。同年53年20歳のとき小説「誰がぶつぶつ言うのか?」で話題になる。父親は彼女を歯科医にしたかったが、反抗して?ギターと和声学を学んだ。スタイルはギターの弾き語り。その辺はアンヌ・シルベストルに似ていなくもない。女性がボロリンとギターを抱えて自作の曲を歌うというスタイルは、やはり珍しいのではないだろうか。先の2曲は実は声も曲も知っていたけれど、Nicole Louvierは本当に初めて。予想通りの声。安定感のある声。20歳だから声は若い。その後2?La demoiselle au fond de la voiture(par Jacqueline VALOIS),,3-Monique est amoureuse(par Raymond GIRERD),,4-Boule de feu=邦題(燃ゆる情熱)(par SUZY SOLIDOR=この人は32歳でデビューしたひと。今回この人の声を聴けたのも良かった)
そして3枚目B面は1-Ma petite rime(par TOHAMA),,2-Auteuil(par Robert PIQUET),,3-Quand il m'embrasse(par Lys ASSIA)この曲はDatinとVidalinの曲(Jacques Datin作曲Maurice Vidalin作詞ではバルバラも「Les boutons dores金色のボタン」「Tais toi Marseilleマルセイユよ、お黙り」をそのレパートリーに入れている。,,4-La chanson des lilas(par Maurice CHEVALIER)
DEAUVILLEのシャンソンコンクール1953年のレコードが日本で発売されていたこと自体が奇跡、それを平成17年に聞けるというのも不思議な気がする。蘆原英了氏の功績のおかげ。
皆様も狙いを定めて本当に聞きたい曲を、ここでしか聞けない曲をどうぞ聴きに行ってください。そしてその時はその喜びの報告をお願いしますね。
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「L'eau Vive河は呼んでいる」par Guy Beart
女優のEmanuelle Beartの父。子供のころ、これがシャンソンと言わんばかりに日本で大ヒットした曲。Nicole Louvierもこの曲を歌っている。

国会図書館蘆原コレクション(1)

国会図書館蘆原コレクション(1) 2005年2月28日 (Mon) 17:45:09

掲示板に書いたバルバラの2冊のうちの一つは、小さな小さなおもちゃのような本で、フランス語の歌詞集。もう一つは一番最初のバルバラ伝記(Seghers社1968年刊Jacques Tournier著「Barbara ou les parentheses」全172ペイジ、絶版)内容はフランスのバルバラサイトのBIOで散々書かれていることと大体同じ。優秀なサイトのBIOは全部の資料を丹念に当たっているので、現在集められる限りの情報は網羅されている。このサイトはそのすべてのサイトのBIOおよびバルバラ自伝に当たっているので、こちらのBIOもご信頼ください。

レコード3枚(1日3枚までしか聞けないシステム)のうち一番最初にきいたのは、大好きなのに聞くチャンスのほとんどないJacques Higelinの「PARIS-NEWYORK,N.Y.PARIS」「Cigarette」これは1回聞いただけで、しびれてしまった。PATHE MARCONI 1974年となっていた。でも68年の時代そのままの感性。まざまざと蘇る。あきらかに74年でも、05年でもない。この感性がたまらない。わかりやすくいうとルーリードのアルバム「ベルリン」に通じる、そんな気がする。HigelinはCD屋さんで探して「UNE CIGARETTE」という曲の入ったものを買ったが、期待した「Cigarette」とは別の曲でがっくり1度しか回していない。
この「Higelin」というアルバムFACE1は、PARIS-NEWYORK,N.Y.PARIS、、CIGARETTE、、MONA LISA KLAXSON、、CHAUD,CHAUD,BIZENESS-SHOW、、、、そしてFACE2は
EST-CE QUE MA GUITARE EST UN FUSIL?、、UNE MOUCH SUR MA BOUCHE、、OESOPHAGE BOOGIE,CARDIAC BLUES、、BOXON
乱暴な言い方をしてしまうと、日本でなら寺山修二や唐十郎のお芝居とひょっとしてリンクする感性があるかもしれない。シャンソンなら「Comme a la Radio」というところでしょうか?
realisateur artistiqueはご存知CLAUDE DEJACQUES、と書いてありました。そしてこういう言葉がジャケットの上に。
HEY Je suis ne dans un spasme, le ventre de ma mere a crache un noyau de jouissance et j'ai jamais perdu le gout de ca.(歌詞からの引用)

資料はシャンソンに留まらず、サーカスや演劇、バレエ、オペラ、ロシア語の歌やら、日本の文化資料も。その緻密さ、熱心さには、卒倒してしまう。蘆原英了氏のひととなりに圧倒される。偉大なかた。業績を残すというのはこういうことなのかと、膨大な時間とお金と人生のほとんどすべてを賭けなければ、これだけの資料を残せまいと思った。資料目録だけで何冊もの本になっている。図書館学の力がないと、こういう資料整理は不可能に近い筈。そして資料はこのように整理しないと、その価値は無いに等しいということも思い知らされた。誠心誠意そして全人生を賭けなければそしてそこに無限の愛が無ければ、業績と呼べるものなど、決して残せはしない、ということを思い知った。シャンソンファンとして蘆原英了大先生に感謝!!

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「Cigarette」 par Jacques Higelin


「プレリュード」

「プレリュード」 2005年2月24日 (Thu) 2:19:58

「2N世代」KNへの献辞:
・・・・・・・・・・・・・・・・・・


かきえない かきえない絵画
生きえない 生きえない演出
つかみ得ない つかみ得ない確信(たしかさ)
ただ いつわりの笑い
ざわめきの 安堵(やすらぎ)
それでも それでも
生きた時間の集約(かさなり)の 色彩(いろあい)
ことばのぬけがらの 遺品(かたみ)を
生きる証として
あなたに あなたのもとに


歩めない 歩めない街
歌えない 歌えない過去
運び得ない 運び得ない持ち物
ただ いつわりの感謝
ざわめきの 旅だち
それでも それでも
生きた時間の集約(かさなり)の 身体(からだ)
ことばのぬけがらの 子供(うた)を
生きた証として
あなたに あなたのもとに


・・・・・・・・・・・・・・・
「これ、ついでのときにNさんに渡して」と「2N世代」を渡そうとして引っ込めた。「あっ、その前に何か言葉を付けておこう」とGribouilleの机の後ろのテイブルで、一気に書いた。約10分。Gribouilleに改めて渡す。
G「これ、いいね。私の分にも書いて」
Gribouilleに渡した「2N世代」のオレンジペイジ(扉)にも、せっせと書いた。B「はい、これは、あなたに」
G「これもいいけど、あっちのほうがいい」
そう言って、引き出しを開けて、自分のノートに上記の詩を書き写し始めた。
B「書き写してるの。私もすぐに忘れるから、書いておこう。人に差し上げる献辞を自分のノートに取っておくのは、少し抵抗があるけれど」・・・
Gribouilleの動作を真似たおかげで、大昔のあの瞬間に消えた筈の言葉達が、まだこうして残っている。
この詩には後年曲、演奏、歌までついた。誰が曲を書き、どんなグループが演奏し歌ったのか、もう名前さえ思い出せない。
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「La Foule 群集」 par MILVA


CHANSON D'AMOUR

CHANSON D'AMOUR 2005年2月22日 (Tue) 17:23:12

-Dedie a Bruxelles-


                「モオブ色の朝」


いつかみた マグリットの空の青
はてしない存在の淵にたゆたう波音
今日の日はかくも透明に聳え立ち
淡いピンクのちぎれ雲 たなびく明日(あした)


いつかみた クリムトの淡い膚
はてしない百花繚乱いのちの錦地
今日の日は血にたぎり恋に燃え立ち
コバルト色の彼岸波 よせくる明日


いつかみた ムヒャの目眩めく花模様
はてしない蜜蜂の群 虚空に逆巻く羽音
今日の日は愛を知り涙を流し
モオブ色の朝ぼらけ ひとり待つ明日



     -par ton JOE-
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「BRANDENBURG CONCERTO NO.5 in D major」
 par The Jacques LOUSSIER TRIO


実験1行詩   「1行ニュース」

実験1行詩   「1行ニュース」 2005年2月20日 (Sun) 17:02:18

修飾語句節の重力を分散する

               「1行ニュース」

 内から噴出する屈曲情念がどくどくと皮膚表面に肉迫するザラザラした吐息の臭気をも・・・・(中略)から循環器官がポロリと干上がり崩壊しはじめたと同じ速度で輝きを失くし始めた魂の叫びにも似て色あせていく茶褐色の空の下でピエロと哲学者の”Homosexualitat"を窃視しながら1行の詩を書くためのharakiriを拒絶し前衛劇団の靴跡を鼻からミルクを垂らしながら嘲笑する19世紀の曲乗り飛行士が巨大な二子山に口づけする間をトンビがとるように墜落させる一瞬の飛躍的和合が欲しくて、寄席の切符でザ・タイガースのチョコレートをくるんで道頓堀を這い這いしようと夢想する公害病的正常人の「りんごは木から落ちる」ことですべてを整然とさせることへの期待の破裂を近接未来に孕んで強精ドリンクを飲み始めた大学の芝生で野良犬に噛まれることによって自らも犬に変身しようとする呪いの体液に狼狽しながら食前食後に中間小説のメリケン粉のような発作止めを痙攣した手でのみ、法に触れまいと目をキョロつかせているとんがり帽子のおじさん達に混じって頭でっかちが透明に四股を踏む空中に宙溜まりした水の中でプカプカとではなく覚醒しようとする自己に向かって駆け集まってくる負けた国の子らの狂宴が<On commence!!>
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「Nous ne sommes pas des Anges天使のためいき」 Barbara & France Gal
  今は昔Dannyが送ってくれたレアもののテープより


第一回関西短詩の会

第一回関西短詩の会 2005年2月19日 (Sat) 19:17:42

前年、石津、石原両氏が来阪して電話があった時、会いに行こうかどうか迷った。祖母の許可が必要だった。
「家にじっとしていないで、行ってらっしゃい。私は自分の孫を、より広い世間の人に見てもらいたい。大阪といわず、東京と言わず、世界のどこへでも行ってらっしゃい。井の中の蛙は駄目。広い世界で真価を問うていらっしゃい」そう言ってくれた。
それまで、まるで籠の鳥だったので、許可が出ても道順というものがあまりよくわからない。阿部野橋のユーゴ書店で会った。

第一回関西短詩の会は梅田の旅館の一室で、主幹の山村祐が東京から来阪し、普段誌面でしか会わない人達も集まった。まずは自己紹介。過半数が長い川柳歴を持っている。「番傘」系の人達。まだ今ほど売れていない時実新子さんのお仲間達だ。私は自分が一番新入りで若いと思っていた。隣の席の子は16歳、神戸から来ました、と言った。
「一人で神戸から来たの?」「いいえ、母と」
「お母さん今どこに?」「パチンコ屋におります」クックックックックッ、、。・・
句会形式で、お題は「地下鉄」
ー 地下鉄や やがて手が出る 足が出る ?
「クックックッ、地下鉄に飛び込む人はいないんじゃない?」
風変わりな子、森光は今で言うフリーター。高校に行っていない。今年中に新潮文庫100冊読破を目標にしている。私生児のようで、お父さんは死ぬ前は新聞を発行していた、と言う。お母さんは水商売の道を歩んできた人のようだ。
「帰りに母と会ってください」と言うので、パチンコ屋まで一緒に行った。この母娘は黒岩重吾の小説に出てきそうだ。

山村祐は川柳人で元大蔵官僚。退職して豊島区で旅館を経営している。普段の東京の会合はその一室で行われるらしい。会員は全国に200人くらい?若者は川柳ではなく「抒情文芸」から入ってきている。後年「海とユリ」の主幹となる作家の芦原修二氏にも、まずこの「抒情文芸」を通して出会った。

1,2年後に森光から電話があった。「お母さんが自分のスナックをはじめたので遊びに来て」
従業員の女の子が一人いて、私と同年だった。水商売の世界以外知らない子で、私はたちまち興味を持った。なんだか、波乱に満ちた私の想像の及ばない人生を歩んできたのではないかと、勝手に思い込んだ。何回も通ってその子とばかり話し込んだ。
「あなたは純粋だけど、あの子はそうじゃない。ほどほどにしたほうがいい」と森光から後で家に電話があった。確かに次に行ったときは彼女に悪い客筋が付いていて店がピンチだと言うことだった。Open1年後に電話してみたら、既に店が潰れていた。

短詩本体には、石津、石原両氏が盛んに詩論を書いていた。ほどなく木村太郎氏や私も盛んに書き始めた。石原氏は短詩型文学に直喩を持ち込み時間の流れを導入した。私は1行の詩が、その直喩によって渦を巻くのを見た。石原氏が短詩集「迷走」を出すとき私に論評の依頼があったのでアントニオ・ガウディーの曲線の情念性を、現代建築の直線性と対比させて、石原作品に切り込んだ。詩論を読んだり書いたりしているうちにシュールレアリズムに行きついた。当時5カ国語を同時進行で学習していたこととあいまって、言語回線が混乱し始め危うくなってきた。
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Sylvie Vartan 「Irresistiblementあなたのとりこ」

Stupid Cupid (3)

Stupid Cupid (3) 2005年2月12日 (Sat) 19:14:50
STUPID CUPID(Connie Francis)を聞く

泊めてもらおうと友達のアパートにやってきた。7時に到着する予定が迷いに迷って9時近くになった。約束は出来ていたが、今日来るとは言っていない。当然のことのように留守だ。仕方なく頬杖をついて階段に座って待った。9時半、10時・・。階段の横を上っていく女の子がいた。
「誰か待ってるの」「一号室の友達」10時半。さっきの子が降りてきた。
「友達帰るまで私の部屋で待ってるといいわ」
遠慮していり口の隅っこに座った。11時になった。その子が私の分の布団も敷き始めた。・・
「私の部屋に泊まりに来る?」あの時代、東京をウロウロしていると、何度か見知らぬ子から言われた。
11時半、やっとHMが帰ってきた。「オッ、来たの、八王子の門間さんちに行ってた」
HMとは初対面、お互い作品と文通ですでに友達感覚でいた。
三畳一間のアパート。寝るときは机の下に脚を入れて寝た。次の日は二人で「メシ屋」に朝食を食べに行った。
彼女も私も「短詩」という同人誌で書きまくっていた。彼女の文章は爆発している。言葉の時速が300キロ。その年二人同時に年度賞をとった。壱岐の島の出身で、東京12チャンネルのCM課で働いていた。夕方新宿西口でまた会った。フーテンやヒッピーがいる。彼女と歩くとその辺りから声がかかる。知り合いが多い。湖東さんという、目の前を歩くサンドイッチマンの友達にも紹介された。三人でオールナイトのゴーゴーバーに行った。帰ってきて部屋にあったウイスキーをガブガブのんだら、夜中にゼーゼーと喘息の発作が出た。あわてて頓服を飲んだ。次の夕方は、やはり「短詩」の仲間の石津、石原両氏に会った。前年の連休に来阪した二人とはすでに阿倍野で会っていた。新宿に300円でとんかつ定食を食べさせてくれる店があるというので、4人でそこへ行った。彼らにしてもいつも単語帳を携帯している。面白い言葉には常にアンテナを張っている。

もう一人大阪に「短詩」の同人で木村太郎という人がいた。この人も書きまくっている。ある日曜日突然家にやって来たので、隣の喫茶店で会った。しばらくして木村氏は「詩劇」という詩誌を発行し始めた。

早い話が(時速300キロ?)ふとしたきっかけで、私が木村氏とHMをくっつけてしまったのだ。HMは仕事を止め、知る人とて二人しかいない大阪にやってきた。

一年目のお正月はCupidのところに二人でやって来た。初々しくラヴラヴに見えた。HMが主婦の生活に退屈し始めた頃に、運良く子供が生まれた。それから何年かして、HMが身体の不調を訴え始めた。心因性のものだ。「離婚したい。離婚したい」と毎日のように電話がかかってきた。彼女には周囲に知り合いはいない。結婚生活の不満は私にぶつけるしかない。彼女の悩みは2,3年くらい続いただろうか。

私が事故で入院したとき、子供を連れて二人でお見舞いに来てくれた。二人して私を励ましてくれた。帰るとき、ベッドから手を出し木村氏とも、HMとも握手した。「ありがとう」
すると9歳の子供が後ろから出てきてこう言った。
「お父さんとお母さんも握手して。僕お父さんもお母さんも二人仲良くしてほしいな」
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「Parce qu'on vient de loin」 par Corneille

Stupid Cupid (2)

Stupid Cupid (2) 2005年2月10日 (Thu) 18:52:29 STUPID CUPIDの演奏を聴く

一番近いからと選んだ高校。それでも電車通学でしかも駅から遠い。先輩の田中さん、福島さん、同学年の臼井さん、その他登校途中で話し合うようになった友達もいた。ある時臼井さんが、苦しい胸のうちを打ち明けた。・・
「山崎君なの?その想い人は」「そう」
そういえば山崎君も2,3日前何か臼井さんのことを言っていたような気がする。
「臼井さん、その話うまくいくような気がする。山崎君は友達だから、私から伝えてみる。期待して待っていて」
1時間目が始まる前に山崎君に伝えた。・・
その夕刻、二人は会い、手をつないで帰った。

以前一度山崎君が珍しく遅刻した。
「どうしたの今日は?」「裁判所からの呼び出し」
「また何故に?」「バイクの無免許運転」
おとなしい子なのに、そういう面があったかと、その時思った。顔を見ると目が鋭い。トンガッている。
でも臼井さんと付き合い始めて恋する少年になった彼は、ソフトに丸くしっとりと落ち着いてきた。ただ翌年の受験、さらにその翌年の受験にも失敗した。その間も臼井さんはずっとそばにいた筈だ。月に1,2回、二人してよくわが家に遊びに来た。帰るときには彼女のコートのボタンを彼がとめ、マフラーも彼が彼女の首に巻いた。

その時彼は3浪目に入っていた。ある日「相談がある」と一人でやって来た。うまくいっていない、もうダメだ。限界を超えた、と彼は言った。「気分転換に阿倍野に出よう」
近鉄百貨店の北面を西から東に歩いた。今の「新宿ごちそうビル」を2,3百m過ぎたあたりだった。
「ちょっと、お二人さん、どこへ行くの、待ったぁ!」と後ろで大声がした。

家に帰って祖母に聞いた話だ。山崎君と私が家を出て5分もしないうちに臼井さんが、それは険しい顔でやってきた。
「山崎君ここにいませんか!!」「たった今、二人で出かけ」
全部も聞かずに戸を開けたまま血相を変えて立ち去ったという。

山崎君と私はビックリして振り向いた。
臼井さんが山崎君に駆け寄り大声でいきなり彼を罵った。
「私を捨てて、Bruxellesさんと・・・」
「Bruxellesさんに失礼なことを言うなよ」
激しく口論している。すると目の前で彼が彼女をビシャリと平手打ちした。なんてことを、と止めに入ろうとした0.1秒の間に、今度は彼女が彼をバシィッとビンタした。私はその激しさに2,3m後退りする。また彼がビンタ・・、するとまた彼女が・・、また、すると、。二人が疲れるのを待って、離れたところから言った。
「あの?。気が済むまで殴り合ってもいいけど、私はそろそろこの辺で帰らせてもらう」

家に帰ると珍しく兄が出てきた。
「臼井さん山崎君と会ったか?どうなった?」
「近鉄百貨店の前で、今ビシバシ二人激しく殴りあってる」
兄「・・力は山を抜き気は世を蓋う、時に利あらず、ウスイ逝かず、ウスイの逝かざることを如何にすべき、虞や虞や若を如何せん・・」
B「馬の話じゃない、それにそれはウスイじゃなくて、(スイ)でしょう、もう」
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「Ma cabane au Canada」 par Line RENAUD
この曲をはじめて聴いたとき驚いた。何に驚いたかといって、そのテンポにである。

Stupid Cupid (1)

Stupid Cupid (1) 2005年2月9日 (Wed) 18:23:18
STUPID CUPID(KARAOKE)を聞く

高2の時の仲のよいグループ4人組はクラスメートで席も近かった。お正月は山崎君の家に4人集まったこともある。国末君のお父さんは他の高校の英語教師で偶然、亡くなった私の父の大学の同級生だった。もう一人は針君。4人で来年の受験の話もするようになった。それで藤本美智子から横取りしたFKと会う時間がもう無くなった。FKはしきりに誘ってきた。
それでFKと二人で映画に行った。確か「わらの女」という映画だった。その帰りに喫茶店に入って、こう切り出した。
B「もうあんまり会えない。誰か、好きな男の子、いないの?」
FK「いる」一年先輩の蒲鉾屋さんの息子さんだった。
B「わかった。明日話をつけてくる」・・・
意を決して3年生の教室に行った。武井さんを呼び出してもらって廊下で会った。「はじめまして。実は・・」
これで失敗すると私は藤本美智子に顔向けできない。緊張した。

FKから楽しい報告が来た。武井さんの友達も含めてグループでキャンプに行ったり、ハイキングに行ったりカップルは快調にスタートを切った。とてもとても嬉しかった。ただ翌年武井さんは受験に失敗してしまった。その翌年FKは看護学校に進学した。

卒業してからバラバラになってFKのことを完全に忘れかけた頃に、武井さんが私に連絡して来た。「彼女がBruxellesさんに会いたがっています」そう言って車で家まで迎えに来てくれた。
彼女の家に行くと、お父さんのお通夜だった。とんだ再会だったけれど、こういうかたちで私を信頼し、そしてまだ必要としてくれる気持ちが嬉しかった。彼女は看護学生らしく、微にいり細にいり、お父さんの手術の様子を話した。何か伝えたいという気持ちがよく伝わった。

何年かして彼は仕事の都合で名古屋にいった。
それからまた何年かして、二人に呼び出された。
「いよいよ結婚するので、キューピットのあなたに結婚式の司会をしてほしい」ということだった。
FKの人生をそこまで見届けることができるのは最高に嬉しい。帰りに「結婚式の司会」という本を買った。これで何かFKにも藤本美智子にも責任を果たせるような気がした。

「本日はお日柄も好く、○○ご夫妻のご媒酌により・・・・」
客人席には、高校時代の顔見知りも何人かいたし、彼女の友人の看護婦さんたちも、私のことは話に聞いてよく知っているようだった。
ピアニストも元同窓生だ。お色直しご入場の時に「愛の賛歌」を弾いてもらった。そして、ブレンダ・リーが歌う英語の歌詞で、歌わずにメロディーに乗せて朗読をした。
 ♪ If the sun should tumble from the sky
If the sea should suddenly run dry
If you love me really love me
Let it happen darling I won't care ♪
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式が終わると、その夜「詩と思想」の座談会があったので、フォーマルスーツでその足で、新幹線に飛び乗った。

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「Poupee de cire, poupee de son」 par France GAL


電話嫌い

電話嫌い 2005年2月8日 (Tue) 18:03:08

もともと電話は好きではない。けれど、これほど電話嫌いなのは、多分昔TTがかけて来た電話のせいだ。毎晩取り留めのない電話が1,2時間かかってくる。はじめの数ヶ月は礼儀正しく、切るときは「お電話有難う」と必ず言っていた。受話器の側に呼びつけられて、そこから離れられないのは苦痛だ。一度無理矢理切ってみた。すぐにまたかかって来る。TT「ごめんね。電話切れてしまったね」・・また延々と続く。他の人にこの手を使ったときは、その人が怒り出しうまくいったのだけれど。

ある時受話器を肩にかけて、TVを見ることにした。どうも落ち着かない。受話器をテーブルに置いたまま少し離れて本を読むことにした。これも落ち着かない。20分ほどして受話器を耳に当てると、大抵まだしゃべっている。あまりに失礼なことはしたくないので1年は耐えた。それ以後は「申し訳ないけれど、急ぐので、これで切らせて」と言うようにした。TT「すぐに切るから、あと5分だけ・・」また延々と続く。・・
「簡単に用件を5分くらいでまとめて言って」と、率直に言って、それが効果を表すようになるまで、10年かかった。こういう物言いは相手を傷つけることは、わかっていたが忍耐にも限度というものがある。

携帯を持つようになってからのSKの電話も嫌いの原因のひとつかもしれない。
「今駅で、電車を待ってるところ、・・今日は会社でね・・」
一方的で全く配慮がない。その挙句、
「あっ、電車が来た。それじゃ、又ね」
話す内容など初めから何もない。ケータイの電話はさすがに1,2時間続くことはないが、自分の都合だけでいつも一方的に時間を略奪していく。パチンコ台(暇つぶしの相手)にさせられた気分だ。

高橋さんや、関野さんや福井先輩からの電話だと、結構楽しくいつも1,2時間は続く。結局内容の問題なのかもしれない。

電話嫌いから電話恐怖症にまで仕上げたのは三田さんだ。お誘いの電話だ。嫌がっているのを察した後は作戦を変えたようだ。
「もしもし三田です。多忙だったので、なかなか電話できなくてごめんね」 ??????いきなり謝られても困る。誰も電話を欲していない。
三田「最近どうしているの?」B「忙しい」
三田「僕も忙しくて、ゆっくり会えないんだけど、何とか時間を作って、電話するよ」(お願いだから、電話を止めて。勘違いの幻想に早く気づいて)

ベルが鳴ると受話器をとるまでに、無視しようかどうしようか、必ず数分は迷う。ある時意を決して受話器を取った。
「・・・」無言だ。様子を伺っている気配。
「もしもしBruxellesですけど」珍しくこちらから名乗った。
「・・・。はい三田です」そして間が空く。間が持たないので、話しかける。「三田さん、久しぶり、元気だった?」やっと会話が繋がった。話すこともないのですぐ又途切れる。すると
「ところでBruxellesちゃん、この電話何の用?」!!!
(自分から電話をしてきてボケたのかしら。多分相手からかかってきたという幻想の自己暗示にはまっているのだろう。人は時々自分の夢や願望を現実とすりかえる)ヒャッと恐怖が走る。

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「Les yeux fermes」  par Catherine Lara

さすらいのGambler

さすらいのGambler 2005年2月5日 (Sat) 18:28:28

4,5年前に人から聞いた話だ。情報ソースを仮にK子としておく。K子の男友達の一人に製薬会社で働くL君がいた。K子が私の家に来ているときに彼女の携帯に電話が入った。月曜日に会って食事しようと誘ってきた。
「今の電話誰から?」

L君はMRとして働いている。仕事が終わるとすぐに日帰りで和歌山にいく。そして土、日は韓国だ。L君は、勝つときもあるし負ける時もある、というGamblerではない。一晩で数十万から数百万を稼ぐ。”仕事”に熱心で寝る暇はないようだ。
「どうして毎回勝つの?」
すごく頭のいい子で、勝ち負けの原理を数学的に割り出したらしい。L君が仮に、負けるとしたら、怪しまれないために、時にワザと大げさに負けるくらいだ。蛇の道は蛇で、日本全国のそういう場所を知り尽くし、遠いところは飛行機で日帰りする。もう顔を覚えられ、ほとんどの所で出入り禁止だ。

「そのうち日本ではするところがなくなるね」
韓国が狙い目らしい。ギャンブルは公認されている。もうラスベガスにも何回も行った。”仕事”そのものに何の不安もない。問題は通関時だ。大量の紙幣を怪しまれずに、どのように持ち帰るか。勿論出国時にも大量の投資資金を抱えている。一応毎回シナリオを準備する、そこで一番苦労するらしい。

L君はK子にプロポーズしたようだ。K子にノウハウも教えた。K子も飛びぬけて頭のいい子ですぐにマスターした。一度二人でラスベガスに行った。その時も3百万ほど勝ってきたらしい。
「3000万円貯まったら、薬局を出す。それで生活をまず安定させる」L君が言ったそうだ。もう3000万円は貯まっていそうなのに、けれども一向にその気配はない。「今はマダガスカルに行っている」という。マダガスカルはギャンブラーのパラダイスなのだろうか?それにしてもマダガスカルは遠い。彼はついに一部上場の会社を辞めた。仕事を換えた。
「Kちゃんは、どうするつもり?」
「結婚してお父さんの職業欄に記載できないような仕事はしてほしくない」K子は完全に引いている。

留まるところを知らぬL君、薬剤師で賭博の素人なのに、20代でついに、ミナミにカジノを開いた。
「すぐに摘発されるよ、きっと」
「自分の名前は一切出してない。もうスタッフもいるし、表面的にはどう見ても、普通の店のようにカムフラージュしている。その辺はあの子頭いいから」
なんだか劇画本のようなストーリーになってきた。

「Kちゃん、その後L君はどうしてるの?」
L君は6000万円の損失を出したらしい。ヤクザにインネンをつけられ、脅迫された挙句大金を奪われた。
「Kちゃん、断ってよかったね。その子いずれ丸裸になるか、丸裸にされて海に沈められるかしそうだもの」
「そんな目にあっても、まだやる気満々なの。ついてゆけない」

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東京都の石原都知事が、東京カジノ構想を打ち出した。時代は変わる。この後、4,5年もすれば、L君、時代の英雄になっているかも知れない。

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「Le temps des colonies 植民地時代」 Michel SARDOU


素人賭博

素人賭博 2005年2月4日 (Fri) 18:22:11

中村さんに呼ばれた。荷崩れのクレイムだ。写真を付してあちら側に保険の請求をしてもらう。タイプは後輩の清水さんが打つようになった。訳文を手渡したとき、いつもはコメディアンの清水さんが真剣な顔で手招きした。
「Bruxellesちゃん、ちょっと言ってやって。最近典ちゃん(上田さん)毎日帰りに新地の喫茶店に立ち寄って、バクチばっかりしてるのよ。私がいくら言っても、言うこと聞かない。何とかしないと・・」
「わかった」そのまま、W法律事務所に向かった。

「典ちゃんちょっと」上田さんを法律事務所の応接間に招いた。
「ああBruxellesちゃん、久しぶり。どうしたの、何か用?」
「このごろバクチしてるらしいね」
「そんなん、してない。何も、してない」しどろもどろだ。
「摘発されたら、どうなるかわかってるよね」
二人ともまだ立ったままだ。距離を詰めてまっすぐに顔を見た。少し間がある。
「私のお金で、私がどう遊ぼうと、そんなの勝手でしょう。Bruxellesちゃんに、とやかく言われることはないわ」
「ここが法律事務所で、W先生は日弁連の会長、・・、典ちゃんはどうなってもいいけど・・」
「説教やったら、帰って!」そう言って上田さんは身構えた。

彼女は油絵を習っていた。新地の現代画廊でそのグループ展があった時、私も立ち寄りそこでふざけてボクシングの真似事をしたことがある。私の右ストレートが彼女の手首に当たって高級腕時計を壊した。一言の文句も彼女は言わなかった。あの時のことを彼女は覚えている筈だ。だから身構えた。

それでは期待に応えよう。
パッシーン。勿論平手だ。パンチではない。しかし彼女は吹っ飛んだ。吹っ飛んで思い切りドアで頭を打って、バランスを崩して倒れた。物凄い音がした。正直びっくりした。なまじ運動神経がいいので、避けようとして自分で吹っ飛んだのだと思う。反撃を予想して今度は私がファイティングポーズをとった。

上田さんはノロノロと立ち上がり、ソファーにゆっくりと座ってうなだれた。
「大丈夫?」
「Bruxellesちゃん、実は私も、前々から止めよう止めようと毎日思っていた。でもね、習慣になって、ズルズルと・・。踏ん切りがつかなかった。・・でもこの痛さで吹っ切れた。Bruxellesちゃん、わかった、もう、きっぱり止める」
物凄くあっさり成功して、とても嬉しかった。笑いがこみ上げてきたので、黙ってドアに向かった。出て行こうとすると上田さんの声が私を追ってきた。
「Bruxellesちゃん、ありがとう」「Bruxellesちゃん、手ぇ、いたかった?」
涙が出そうになった。くるりと振り向いて言った。
「思いっきりひっぱたいて、物凄い快感、クックックックッ」

そのまま大江貿易の事務所に戻った。そして清水さんを手招きして小声で言った。
「典ちゃん、もう、きっぱり止めるって」
「ウソォー。さすがBruxellesちゃん。一体どんな話をして、説得したの?」
「何の話もしていない。殴っただけ」
「ええっ、、!!」
「クックックックックッ。典ちゃん血まみれになって倒れてるから、見てきてごらん」
「エエッ、ウソォー!!」
顔を引きつらせて、目をむいて、重い体重の清水さんがW法律事務所に向かってドタバタと駆けていった。

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「Mississippi River」 par Nicolas PEYRAC

心斎橋に雨が降る

心斎橋に雨が降る 2005年2月3日 (Thu) 18:58:44

「またお手紙来ましたよ」酒田さんから電話が入った。
「ありがと。近々取りに行くので、・・男性、女性?」
・・酒田さんは姫神さんと出身高校が同じで私とは予備校で知り合った。私書箱の代わりに彼女の住所を使わせてもらっている。淀川が見える中津のメゾネット式のマンションに住んでいた。

「Bruxellesちゃん、川辺歌子って知ってる?」「知らない」
この前家に来てね、「2N世代」を見つけて「どうして酒田さんこの詩集持ってるの」って言うのよ。「私の友達の本よ」って言ったら「嘘でしょう。水平に動くエレベーター、読んだ?」って。それで引き出しを開けて「これが『2N世代』の生原稿よ、私がみんな預かってるのよ」って言ったら、目を丸くしてたわ。
「いつか有名になったら、これも価値が出る」って言ったら「あら、酒田さん知らないの?彼女もう有名よ」って。挙句に川辺歌子がね「酒田さんのこと、見直したわ」って言ってくれた。私鼻高々よ。・・
それで調子に乗って小説誌「海とユリ」の自分の住所として、彼女の住所を借りた。今度の手紙は茨城県の女性からだった。正体を明かして返事を書いたら、すぐに会いたいと言ってきた。酒田さんの職場、中津の東洋ホテルで会うことにした。

「まさか女性があの作品を書くとは、実は今も、信じられない」
「イメージ狂わせてごめんね。どんなところが気に入ってくれたの?」
関野「心斎橋に雨が降る。ことさら何ごともなかった劇場の幕が下ろされる、ように、しめやかに雨が降る、今、9月」
B「ああ、それは『置き去りにされた夜明け』の出だしね、なるほど、なかなかいいね」
関野「自分で書いたのでしょう?こういうのもあったわ」
関野「すっかり忘れるのよ。何もかも忘れるのよ。悲しいのなら、悲しいことは」「僕、みんな忘れるでしょう。何もかも。あなた以外は何もかも。そして明日になれば、あなたのことなんか、すっかり忘れるでしょう」
B「僕としては、上出来の言葉じゃないかーと思った。と続くのよね。それは情事の直後の場面」
関野「傷つけあって生きるのが人生なら、傷つくことを予防しながら生きるのは、一体何か。あるいは愛がある種の狂気なら、正気はひとつの喜劇にすぎない。・・(略)・・個人の主権が個人にある時、少なくとも一人称主語を有した発想が可能な状況で、仮に不幸を選ぶとしたら、それは自らの無能さの暴露でしかない。バカが風邪を引くのだ」
B「神経質なまでに自分をいたわり、他人には優しさだけは持続している。そして時には、ふとしたことから、あるいは退屈さをまぎらわせるため、あえてカゼを引いたりバカになったりしたいと思う」(「寝覚めのバルコニーで」)
関野「あのー、心斎橋に案内してくれませんか?」B「OK」

その後6年くらいの間に5回来阪したように思う。英会話の生徒がオーナーをしている臨海ホテルに部屋を取ったり、大阪湾沿いの臨海工業地帯や新興都市の泉北高速線に沿ってドライブしたりもした。私が交通事故で入院している時、ちりめんじゃこと水戸の納豆を持って病院にお見舞いに来てくれた。それは7年ぶりで(私はもう書かなくなっていた)初めて東洋ホテルで会ってから数えれば13年もたっていた。

私のお勧めで実は彼女も’75年のバルバラのコンサートに出かけている。「ピアノとアコーディオンのシンプルな舞台だったけれど、最高に素晴らしかった」とその夜東京から電話があった。じっとしておれなくなって、墨でバルバラにファンレターをしたためその上に富士山の水墨画を描いて、翌日の大阪公演を待った。

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Anne SYLVESTRE 「J'suis Un Bas Bleu」
この曲も村田先生に採譜してもらって練習したことがある。私にAnne SYLVESTREを薦めてくれたのは、Sabine Raffyだった。


悪戯っ子世に憚る

悪戯っ子世に憚る 2005年1月29日 (Sat) 19:17:14

SSは薬事専門学校の実験アシスタントをしていた。自由時間は比較的多い。車で家の近くまで会いにきた。外の喫茶店で会っていたけれど半年もすると「ABBAの家に行きたい」というようになった。人様をお呼びするような家ではないと断ったのだけれど「一回だけでも、どうしても」と言う。それで、目隠しをして、手を引いて家に案内した。・・
私がベッドに寝転がって訳したばかりのバルバラを歌っていると、SSもベッドに上がってきた。曲の好みは全く合わない。彼女はチャカ・カーンのファンだ。
母が帰ってきた。SSは飛び起きて「お邪魔してます」と挨拶した。後で母に聞くと、母はとても気に入ったという。「どうして?」「こんなオンボロ家に来て、あんなに楽しそうにしてるから」「そんなに楽しそうにしてた?」「とっても」

私の誕生日にSSは突然やってきた。
「どうしてここがわかったの?」
「目隠ししても、地面は見える。必死で地面を見て道順を覚えた」「ええェ!!」
シルクのパジャマをくれた。それから休みのタイミングが合うと、ダイレクトに家に来るようになった。

天草がやってきた。
「天草、今日ね、あと15分もしたら、またSSがやって来る。病気で寝てるって言ったんだけど、じゃ、お見舞いに行きますって」「××××」「××××」「××××」「××××」「そうしようよ。そうしよう。面白い!」クックックックックッ・・。
すぐにSSの足音が聞こえた。
大急ぎで奥の座敷の布団の中に天草が服のまま飛び込んだ。SSが玄関を開けて入ってきた。私は座敷の向こう側の廊下に隠れてタオルで口を押さえてSSを呼んだ。
「今日はこっちの部屋で寝てるから、そのまま上がって来て」笑いを堪えるのに必死だった。
「お邪魔します」と言いながら、重い襖を開けてSSが入って来た。天草は顔まですっぽり布団をかぶっている。覗くとSSがちょこんと布団の側に座っている。
「ABBA変な格好して寝てるのねぇ」
笑い声を押し殺して、呻きそうになった。1秒、2秒、早く布団をめくれ、早く。3秒、4秒、、。
「どうしたの?」どうしたのじゃない、早く布団をめくって、、10秒、11秒、12秒、、。
ブハハハハハハハハハハハッッッッッッ!!
苦し??い!!ブハハハハハハハッッッッッ、、、!!
天草が笑いを堪えきれなくなって、ふとんの中から跳ね上がった。同時に私も廊下で笑い転げた。天草と二人でひとしきり大笑いした後で、SSが、顔色一つ変えていないことに気づいた。
「あー、面白かった、Bちゃん、僕帰るわ」と言って、あっさり天草が玄関へ向かった。
「ごめん、怒ってるの?」と私。
「怒りよりも、呆れかえってる」とSS。
玄関から天草の声。
「あれ、なんで、これ、内側から鍵がかかってるの?なんで、なんでー?」
「なかから鍵かけてきたの?」と私。
「いつもそうしてる」とSS.

「失敗してしまった。絶対布団めくって、中を覗くか、入っていくと思ったんだけど、どうして?」
「玄関に見慣れない靴があったので、誰かが居るって、初めから気づいてた」
「ぎゃふん。クックックックッ、悪戯にも頭が要る。失敗。でも、面白くなかった?」
「全然」そう言ったままSSは深い不信という物思いに沈んでいってしまった。
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「Ma mere chantait toujours」par Ginette RENO


On se revoit (再会)

On se revoit (再会) 2005年1月21日 (Fri) 17:54:00

何年ぶりかで緑風さんに会った。定番の堺東のカニ道楽。長女が来年宝塚を受験したいと言っている、もうそんな年月が流れたのだろうか。ベンツは二人乗りのスポーツタイプに変わっている。出会ってから20数年。私が初めて英会話を担当したクラスにその人はいた。

八尾に通い始めたのは緑風さんの方が少し早い。出入りの電気屋に誘われて大阪航空に入会した。私は遊覧飛行で飛んだことのある産業航空に入った。泉南市の市長に話を聞いて、ようやく踏ん切りをつけての入会だった。Hal Aviationから帰ってきた頃、緑風さんは実技テストのすぐ後だった。・・
「飛行機をチャーターして、試験官と教官を乗せて、まず高松に飛んだ。そしたら上空でエンジンが止まってしまった。慌てたよ。何がどうなったかわからない。命には代えられないから、もうテストは諦めた。でも教官も試験官も真っ青なんだ。もう緊急着陸しかない」
「海の上なら着陸地も見つからないでしょう。それで結局どうなったんですか?」
「ハッハッハッハッ、実はね、給油コックの切り替えをしたら、エンジンが戻ったんだよ」
「ガスケツ?クックックッ、あまりにも初歩的な」
「初歩的過ぎて誰もすぐには気づかなかったんだ。ハッハッハ」
あの時は、航空ライセンス取得祝いに、ロイヤルホテルでフレンチのフルコースをご馳走になった。

はじめてあった時彼は家を新築したばかりだった。若いのに、かなり無理をしたのか、と思った。彼はお兄さんの経営する金融会社の重役だと、後でわかった。
「サラ金はイメージが悪くて世間のバッシングを浴びているから、何か別のネイミングはないか」と聞かれた。数年後に武富士がYEN SHOPと言う言葉を造った時、緑風さんの言ったのはこのことだったのか、と思った。YEN SHOP、なるほど、素晴らしいネイミングだ。

何年かして会ったとき、いきなり彼はこう呟いた。
「金は本来、夢を実現するための、手段に過ぎないのに、最近は金を稼ぐことが日々の目標になってしまっている。これではいけない」無表情に呟いた、当然の言葉なのだけれど、感動した。なかなかそれに気づく人はいない。ましてバブル助走期の金融業者で、この発想が可能な人は、ほとんどいないのではないだろうか。資本主義社会では、利益確保が市場の、至上原理なのだから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私自身騒音で完全に疲弊していた。そう語るその苦渋を充分思いやることが出来なかった。カニのお造りを味わいながら「私も昔宝塚歌劇入団を夢見ていたことがあった」と、漠然と思い出していた。緑風さんはこんな話をしたのだった。
「僕も3年前に、一番気の合った姉を亡くしたんだ。末期ガンだ。見舞いに行ったら姉が『治る見込みもないんなら、ぐずぐず生きていても仕方ない。○○はどう思う?』と言ったんだ。『そうだね・・』ただの相槌のつもりだったんだ。あっさりして度胸も人一倍の姉だった。その夜、病院を抜け出し、列車に飛び込んだ。即死だ。自殺なんだ。言ってみれば、僕が殺したようなもんだ」「・・・・・!!」

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「LA CHANSON DES VIEUX AMANTS」  Jacques BREL


Hal Aviation

Hal Aviation 2005年1月19日 (Wed) 18:00:42

事故以来Xavierは学校に来ない。ショックで鍵をかけて部屋に閉じ籠もっている。「Bruxelles、Xavierを引っ張り出して来ておくれ」とPeterに頼まれた。幸いXavierに怪我はなかったが飛行機の脚が折れてプロペラも損傷した。賠償はどうなるんだろう。寮のドア付近の張り紙を見ると、任意の保険を呼びかけている。

Xavierの部屋をノックする。返事がない。居るのはわかっているのでさらにノックする。するとドアが内から開いた。ゲッソリよれよれのXavierが居た。
「Xavier、そろそろ飛ばないと、次に進めないよ」
「わかってる」
「賠償がどっさりきたの?」
「イイヤ、学校が全部保険でカバーしてくれることになってる」
「よかったね」話を聞くとXavierのお父さんは弁護士で、バスクの裕福な家庭の子らしい。けれど、余分にお金があるわけではない。プロになればスペインに戻らず、そのまま南米に渡り、貨物の空輸の仕事をするつもりで旅立ってきたのだ。イギリス人のPeterがケニアやインド、香港等で自由に冒険の日々を送ってきたように、スペイン人のXavierには広大な南米がある。(そういう感覚はどんなだろうと時々思う。昔の日本人が満州に行く、そんな感じなのだろうか?)

学校の寮は一軒のアメリカの邸宅だった。周りを木々に囲まれた三階建てで、裏庭には当然のことのようにプールがある。プールの管理も行き届いていて水も清潔で夜間には照明もつく。誰も居ない夜、そのプールを独り占めして水着を着て泳いだことがある。満月がとても明るい。以前も夜に屋外のプールで泳いだことを思い出した。フランスからの帰途タイに立ち寄り、バンコックのホテルのプールで、あの時は下着のまま泳いだ。

一度大きな浮き輪に乗ってプールの中で本を読んでいるPeterを見た。ここはアメリカだけれど、それはイギリス人しか醸し出せない悠然さだった。大英帝国、腐っても鯛。国の歴史はこうして個人の振る舞いの中に実は生きている。ここは所詮様々な事情で祖国では生きていけなくなった貧困の民がメイフラワー号で渡ってきて開拓した、せいぜい200年の新興国に過ぎない。原爆で叩きのめされた日本人にとってのアメリカとPeterの感じるアメリカはおそらく全く違う筈だ。

昨日トリニダード・トバゴ人が入校した。その前はおしゃれな初老のフランス人紳士が、さらにその前はドイツ人の化学の教師が、・・。ここはアメリカなのにstudentsの中にアメリカ人は、初日の夜ピツァを食べていた金髪のアメリカ坊や一人だけだ。マイアミの飛行学校から、あそこは生活費が高いからと転校してきたギリシャ人のビジネスマンもいる。寮にはスイス人、香港人、が各一名、イギリス人が四名、私がビューイックをシェアーしているのはイギリスで教育を受けたナイジェリア人のジョン。他の人達は「ロックフォドの事件メモ」のロックフォード父・息子が暮らしていたようなトレーラーハウスにいるらしい。学校はトレーラーハウスを何台も所有している。私は会っていないが学科の教官はドイツ人の女性らしい。校長もドイツ人。教頭はヨーロッパ人風のアメリカ人。事務局長のSallyはイギリス女性だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「Bruxelles有難う。僕明日から飛行機に乗るよ。いつまでもベッドの中で怯えているような余裕はないんだ」着陸時に突風が吹いたのだ。誰にでも起こりえる。「乗り越えないと、そこで止まってしまう」
////////////////////////////////////

「Je ne sais pas」 Jacques BREL

Memphis Elvis

Memphis Elvis 2005年1月16日 (Sun) 23:36:35

ロサンゼルス国際空港に到着。国内線に乗り換えてMemphisまで行こうとしている。小銭がない。コレクトコールで電話する。
「後で支払いますので、コレクトコール受けてください。お願いします」「OK」ホッとした。
「いまからUAに乗って○時○分にメンフィスに到着します。それからどう行けばいいですか?」「電話番号言いますのでそこへ電話して」メモを取る。「ここへ電話すればいいんですね?」・・
米国の航空雑誌の広告を見て、1度手紙を出し、1度電報を打ち、一度送金した。リクエスト通り2度電報で返事が来た。やり取りはそれだけ。後は何も知らない。実際行ってみたら学校が無い,ということさえあり得る。どんなところか一度も想像したことさえない。あわただしくMemphis行きのUAのゲイトに向かう。

Memphisに降り立った。時間があるので両替して電話してみた。「迎えに行きます」「どこで待てばいいんですか?」parkingの事務所で待てと言う。Memphis空港は巨大で、どこがparkingで、どこが事務所か、全くわからない。parkingという事は車で迎えに来るのだろうか。どこの誰が来るんだろう。とにかく聞き続けて、それらしき所までたどり着いた。誰がどのように私を認識するのだろう。気が気ではなくなって、事務所の外に出て待った。私は今知る人とていないメンフィスにいる。

車が来た。駆け寄ると名前も聞かずに「どうぞ」と言う。乗った。若い女の運転手だ。「今ね、どこをどう走って、どこへ行くのか全然わからない。Memphisですよね。Memphisと言えば、Elvis。それしか知らない。何の知識も無い」すると彼女が言った。「Memphis,Elvisここは、それで充分よ」・・・
小型機専用飛行場らしき所に到着した。ここで車を降りるらしい。
「これから、どうすればいいの?」「飛行機が迎えに来るわよ」「誰を」「あなたを・・」
ようやく飲み込めた。この女の人は学校関係者ではなく空港関係者なのだ。どれくらい待てば小型機がお迎えに来てくれるのか。15分もすれば、やはり不安になってまたしても空港事務所の外に出て待った。遅い。うっかりすると夜間飛行になってしまう。釘で打ち付けられたようにポツンと立って、ひたすら待った。

飛行機、車と乗り継いで学校の寮に到着した時は夜の9時前で,全体が見えなかった。アメリカ人の生徒に紹介された。一人サロンでピツァを食べている。いきなり寮に来たので、手続きは明日だ。今日はどこで寝るんだろう。地下の一室を与えられた。車のみならず無料で個室も提供してくれる。ただ冷房がガンガン効いて、その冷気が地下に降りてきて、冷蔵庫のように寒い。毛布を2枚余計に借りた。眠い。明日にならなければ、寮の全容も学校の全容もわからない。都合よくすぐに眠った。

////////////////////////////////////
「Mein Lieber Herr」 par Dalida

・・・・・(略)・・・
Aufwiedersehen lieber  さようなら、愛しい人
Bientot je reviendrai  またすぐに戻ってくるわ
De Berlin a Paris ベルリンからパリへ
La guerre sera finie 戦争は終わるでしょう
Les arbres seront en fleurs 木々には花が咲き
Les hommes auront du coeur 人々には優しい心が蘇るでしょう
・・・・・・(略)・・・
(ナチが行進する映像をバックにダリダが歌った、大好きな曲) 

Flight Robin

Flight Robin 2005年1月11日 (Tue) 18:09:21

Flight Robinに出た。あらかじめ決めたABC地点の上空を飛び回って、どの飛行場にも離着陸しないで帰ってくるFlightのことをFlight Robinと言う。機体のブレを少し感じる。エンジンの音も少し違う。イヤな予感がする。帰ってきて報告をしておいた。

2年前Bostonで知り合ったHi Brownにアメリカに来ています、という手紙を書いて事務局に持っていった。
「ちょうど今から郵便局に行くところよ。Bruxelles、一緒に行く?」「OK、車に乗せてくれるの?」・・
「Cathy、これ軽の日本車ね」
「Hondaよ。貿易赤字がどうの、日本製品ボイコットがどうのと、煩いけれど、Bruxelles安心して、私はHonda、日本車の大ファンよ。燃費はいいし、それに第一故障しないもの」・・
私はビューイックを学校から貸してもらっている。ただガソリンやオイルがどんどん減っていく。これは何ccかと聞いたら、6000ccと言うではないか。なにかオイル漏れしているような気がしてメカニックに「ちょっと見て頂戴」と頼んだら「僕は空冷式(飛行機)はわかるけど、水冷式(車)はわからないよ」と言われた。そんなもんなの?

「Bruxelles、学科試験の結果が届いてるよ」「ええェ!!」「私が開けて見てあげるね」「ninety-eight points! Bruxelles、おめでとう!!」Cathyが抱きついてkissしてくれた。
FAAの学科試験の勉強は新大阪のAviation Language Academyの西村教官から数時間の個人レッスンを受けた。買った独習用のテイプ教材に大幅な不備があって、それを言いに行ったら「お詫びに教えます」と言うことになった。最後に学科の学習を修了しましたという正式なFAA教官のendorsementを貰った。おかげで全米で一番安い飛行学校のpackage料金から、さらに値引きしてもらって、学科の授業を全く受けずにいきなり受験することができた。滞米日数を最短にしたかった。

昨夜は珍しく何人かがサロンに集まっていた。
「今日はpower-on失速の練習、怖かったぁー。思わずワァーって声が出そうになる。あれ、事業用ではキリモミまでいくんでしょう?」「そう。まるで空中を舞い落ちる木の葉のように」「私なら、気絶する」応えるのはマドリッド出身のJesus(ジーザスと書いてヘススという音になる)。夜毎、この町のAmerican girlsの車が次々と彼をお迎えに来る。
「ブーブーというあの失速警報音っていやな音ね。その音を聞きながら延々と操縦桿を引っ張り続けるのは相当の意思の力がいる。キリモミからの回復は一体どうするの?」
「手足を離してバンザイをするのさ。自然回復力以外に手はない」「ふーん」
Xavier(ザビエ)もパエリャを手に話に入ってきた。「60度の右旋回も相当Gがかかるよ。ワァーと言いたくなる気持ちわかるよ」
「Xavierってね、大阪の堺市にザビエル公園があるけど、ひょっとして何か関係あるのかなぁ。日本にキリスト教の布教に来た宣教師」
「多分ね。バスクの子供はみんな偉い宣教師にちなんだ名前になるんだ」「バスクって今も、独立運動してるんでしょう?結構テロも派手にやってる。バスク語って学校で習うの?」「うん」「バスク語って、言語起源的には日本語に似てるって聞いたことがある」
・・・・・・・・・・・・

夕方動物愛護教官のピーターに、Bruxelles,象牙のブレスレット止めろよと言われているちょうどその時だった。事故連絡が飛び込んだ。一瞬鳥肌がたった。JonesboroでXavierが着陸に失敗したのだ。ピーター他数名がすぐに救助に向かった。

///////////////////////////////////

Nana MOUSKOURIPlaisir d'amour
  STEPHAN EICHER「Can't Help Falling In Love With You」

異業種交流会にて(2)

異業種交流会にて(2) 2005年1月6日 (Thu) 18:00:09

「問4。諸条件が同じ場合、温度が高いほど滑走距離は長く必要になる、かどうか、です」
「滑走距離は長くなる」「僕は短い方にする」「短い」「長い」「暑いほうがフワフワ上がっていくような気がするので、短い」
「いろんな意見が出て嬉しいですね」
「イヤ。長いか短いか、2つだけですよ」
「クックックッ全くその通り。2つも意見が出て嬉しいですね」ハハハハハハッ。「解答先に言いますね。温度が高いほど長く必要。揚力が発生しにくいから」

「問5。他の諸条件が同じ場合、飛行場の位置が高いところにある場合と低い所にある場合と、どちらが長い滑走距離を必要としますでしょうか?」
「これは気圧の問題ですね」「そうそう」
「池山さん、どうですか?」「高いところは温度が低い。先ほどの解答を当てはめたら、答えは滑走距離は短い。で、僕は低いところが正解だと思う」
「温度は同じとした場合、というのが条件ですよー」
「高いところは気圧が低いでしょう」「そうそう。松本飛行場なんかは、高いところにある」「松本は長野県だから、長い。だから、答えは高いだ!」ハハハハハッ・・。
「正解は高い所。空気密度が薄くなるからそれだけ揚力が発生しにくくなる。従って離陸に長い滑走距離が必要になるから」
「空気抵抗の問題ですね」
「今のところ全問正解一人いらっしゃいますね」
「僕ゼロ戦に乗ってたから」「ええッ!!」ハハハッハハハッ。
「阪神パークの・・」ハハッハハハッハッ。

「問6。高度計の針はずっと6000をキープして飛んでいるとして、高気圧のところから低気圧の所に行くと実際は上昇するか降下するかしています。さて、絶対高度はどちらになってるでしょうか」
「高度計の針は同じなんですね」
「高度計の指示高度はあくまでも相対的なもので、それが同じでも高さは、仮に巻尺で計れば、気圧と共に変化している」
「二日酔いが覚めてきた」ハハハハッハッハッ。
「上がる」「上がる」「気圧密度が高いのが高気圧だから・・」「気圧密度が濃いから揚力が発生する・・・」「揚力で上下するのでなく、密度そのもので考えないと・・・」(活発な意見の交換。皆さん考えていらっしゃる)
「上がると思う」「下がります」「上がる」「賭けをしましょう」「クックックッ、警察に踏み込まれますよ」・・・・・
「解答。気圧の高いほうに向かっていけば、上がって行き、低いほうに向かっていれば、ジャン、下がっていくー」
「何で」「何でですかぁー」ザワザワ。それぞれ自説を展開して反論。
「大先生、説明してください」誰かの声。
「はい、クックックッ(返事するしかない、はい)」
「指示高度が同じということは、同じ空気密度のところを飛んでいると考えれば、高から低へ行くということは密度を濃くしなければいけないので、実際は下がっている」
ハハハハハ「僕さっきからペケばっかり」SKが楽しそうに嘆いている。

車ならエンジンふかせば、対応して速度が出るけど、飛行機の速度は相対する風、その他で、出してる速度と、動いている速度が違ってくる。飛んでるつもりの高度も諸条件によって実際の高さとは違う。
ある一定の方向に向かうにも常に左を向いたり右を向いたりしながら、風に対応してベクトルや三角関数で調整する。この不安定さは、 様々な要素で常に流されていく、まるで人生みたいだ。ただフライトにはlandingがあるだけだが、人生の行き着く先には必ず死がある。「間違いない!」「残念!」
//////////////////////////////////

「WOLFGANG ET MOI」 par Marie-Paule Bell

Touch & Go

Touch & Go 2005年1月4日 (Tue) 23:26:20

First Soloの後も何度も場周経路や離着陸の練習はした。今日は単独練習に出かける。私は完全な方向音痴だ。飛び立ったはいいが帰れなかったらどうしよう。一瞬逃げて帰ろうという心境になった。どこをどういったか確認しながら飛んで、帰りはその逆を行けばいい。必死に慎重にいけば何とかなる。情けない気持ちをすぐに打ち消した。

難なく離陸して目的の場所まで行く。晴天だ。対空警戒をしてまずは30度角の水平旋回の練習をしよう。操縦桿を左に傾ける。これで左に曲がれば車と同じだ。飛行機ではこのときアドバースヨウ効果が働きそれを打ち消すために左rudderを踏む。踏み込みすぎると外滑り、踏み込みが足りないと内滑りを起こす。旋回計の目玉のようなボールを見てそのボールが中央に来るように左右の足で調整する。途中機首が下がらないように、速度が落ちないように昇降舵を引いたりエンジンをわずかばかり押し込むこともある。30度傾く少し手前で、戻し操作をしないと、バンク角はどんどん増えていく。30度傾いたところでその角度を保持するのがこれまた大変。そして360度回って、元の正面でピタリとroll outするのも大変。神経を集中して先に先に操作しないと、機体が反応するまで多少の時間がかかる。さっきから他の飛行機の交信がずっと聞こえてくる。なんだかんだと五月蝿いのでラジオをカットオフする。

2時間ほどして練習を止めた。そろそろ帰ることにする。メモを見ながら慎重に慎重に。バンザイ!飛行場が見えた。対空警戒をしてラジオをオンにしてDown Windに45度の角度で場周経路に入る。”Turning base"をマイクで告げさらにBase LegからFinalへ90度少々プラスのturnをしてrunwayを真正面にみる。驚いた!!滑走路の両サイドに学校関係者全員総出ではないか。「私の着陸技術を見物に?」気がつくとfinalにしては高度が高すぎる。ほぼ急降下しないと着陸不能だ。素早くエンジンをカットオフ。でもご覧あれ。私はこの高い高度からの急降下landingは得意なのだ。操縦桿をグイと押す。flapを有効に使う。どんどん高度が下がる。目標のところで車輪が接地。「ワァー」という喚声が聞こえたような気がした。「Touch & Goにしよう。もう一度着陸を見せたい」スロットルを思い切りふかし「Touch & Go」と叫んで再び離陸した。こんなに観衆がいてくれるなんてとっても気分がいい。場周経路を一回りしてあまり気分がいいので「Touch & Go」を2回した。調子に乗って3回目をしようと、やはり1000フィートでfinalに入ってrunwayを正面にみたら、教官のPeterが滑走路に飛び出して仁王立ち。両手でペケのマークを出している。「着陸せねばなるまい」

やはり急降下landingをした。みんなが拍手してくれるのかと思ったら、着陸するなり水が引いたように見物人は消えてしまった。滑走路から身を引いたPeterだけが再び滑走路に戻ってきた。
「Bruxellesどうしたんだい。もう20分も前からラジオで戻ってくるように言ってるのに、全然応答がないから事故があったのかとみんな心配してたんだよ」
「??!!!」言えない。五月蝿いから交信をカットオフしてたなんてあまりに馬鹿げていて言えない。でも、言った。しかもぬけぬけと言った。
///////////////////////////////////

Castafiore Bazooka 「Parfum de dame en noir」
バルバラに捧げられた曲(1998年)。


異業種交流会にて(1)

異業種交流会にて(1) 2005年1月2日 (Sun) 22:32:10

当時SKはアド・チャンスという会社を経営していて月一回アド・サロンという異業種交流会を開いていた。ある日の集まりに講師として呼ばれた。与えられたテーマは飛行機。ライセンスの取り方でも、訓練体験感想でも八尾の競技会のことでも細部は何でもいいということだったので、「操縦の基本」についてQ&A形式で進めることにした。会場はぎっしりでほとんどが楽しそうな30代前半の団塊の世代の男性たち。最初から和気藹々としたムードが充満していた。

まず両手を広げたような主翼の後部外側にあり上下に動くのが補助翼(aileron)。ピンと上がったしっぽのような垂直尾翼の後部にあり左右に動くのが方向舵(rudder)。後ろで小さく両手を広げているのが水平尾翼、その後部にあり上下に動くのが昇降舵(elevater)。
操縦桿を押したり引いたりするとelevaterが反応し、機首が上がったり下がったりする。横軸を想定したこの動きをpitchingという。操縦桿を左右に回すと左右のaileronが反応し左に傾いたり右に傾いたりする。縦軸を想定したこの動きをrollingという。足元の左右のペダル(rudder pedal)を踏むと方向舵(rudder)が反応し機首が左右に振れる。垂直軸を想定したこの動きをyawingという。

さて問(1)。「操縦桿を引くと(一応機首は上がろうとしますが、その時)elevaterは上がるのでしょうか、下がるのでしょうか。ヒントは飛行機は対面する風の力を借りて動き、風は前から来るということ。聞いていきますね。はい。」
「上がる」「下がる」「下がります」「上がります」・・・(略)・・「真っ二つに分かれましたね」
「それじゃ答え。上がります。上がっていると、前からの風が当たって機体の後部を下に押さえる。従って機首が上がる。下がっていると前から来る風は機体後部を押し上げ、従って機首はさがる。簡単でしょう」(pitching)

問(2)。「左足でrudder pedalを踏むと機首は一応左に振れます。さてその時、方向舵(rudder)は左に曲がっているでしょうか、右にでしょうか。聞いていきます。はい。」
「右」「右」「左」「左」・・・(略)・・
「正解は左。機首が左に振れるということは、前から来る風が左に出ているrudderに当たって、それを反対側、つまり右に押す。後部が右に押されると、機首は左を向く」
「前からの風で考えればいいんですね」
「そう、原理は前と同じ」SKは楽しそうにさっきから何を言っても笑ってばかりいる。(yawing)

「さて残っているのは補助翼エルロンのことなんですけどね。操縦桿を左に回すと、一応左に傾くんですけど、その時左のaileronは下がっていますか、上がっていますか」
「質問は左だけですか。右は?」
「左右連動しているので左と右は逆方向に動きます」
「わざと間違えようかなあ」SKがまた笑っている。
「旋回するときは翼は下がるでしょう」
「旋回するときはバイクと同じで、左旋回は左の翼が下がりますが、質問は翼全体ではなく、補助翼、エルロンの動きですよー」
あっ、ざわざわと、みんな真剣に意見の交換を始めた。
「やっぱり下げないといけない。下げると風が当たると浮くことがあるけどね。浮いたら機体は旋回する」「そういう風に機体(期待)してるわけ?」「そうそれが旋回(正解)」
ハハハハハハハ。クックックックックッ。
「正解言いますね。上がる。つまり右のエルロンは下がる。右側に揚力が増えて左に傾き、左に旋回する」
「紙飛行機と同じだね。僕。paper planeを作ってる」
「僕はヨットをやってたので」
「なるほど。お二人とも風の働きをご存知だから、さすがにこれまで全問正解ですね」(rolling)
//////////////////////////////////

「Nuits Bleues」 par Delphine Mailland & Philippe Bott
このサイトのLien(リンク)で試聴できます。どうぞ。


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