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デイトレイプ

市大病院と養護学校で一緒だったNNちゃんがいきなり家にやって来た。離婚したと言う。何度も離婚調停の場でいやな思いをしたのだと言う。なにより自分の両親に強く反対されて孤立無援だったと言った。原因は夫の酒乱。東京で劇団員をしている時、アルバイト先のピザ屋で知り合った青年だ。好き合って結婚したのではなかったか?NNちゃんはそれを強姦だと言った。

酔った男を車で送って部屋に上がった。お茶でも飲んでいけ、と言われて。男の生理を知らなさ過ぎた。ボタンの飛んだブラウスを着て、破れたスカートのまま、靴も履かずに泣いて部屋を飛び出した。タクシーで家に帰った。彼女は19才、彼は21歳。すぐに妊娠に気づく。「責任を取ってもらった」と言う形で、子供をつれ夫となった人と大阪の実家に帰った。彼は料亭で板前の修業を始めた。
彼にしても、思っても望んでもいない人生だったかもしれない。妻の実家の居候となり、若い鬱屈した気持ちをお酒で忘れようとしたのだろう。よその店で暴れては、妻のNNちゃんがお詫びと弁償に走り回るようになった。

友達や仲間や恋人だと思っている相手に、強姦されるデイトレイプ。それが果たしてレイプなのかと不思議に思うが、被害者女性の心には深い傷が残る。

何年かして、好きな人ができたので会ってほしいと言ってきた。居酒屋の若い主人だ。まだかわいいと言う感じのする少年のような人だ。それで子供が三人いて、妻と妻の母と六人家族で暮らしている。
「NNちゃん、それじゃ何の見通しもないね」と言ったら、それがいいのだと言う。彼は男を感じさせない、それに彼はNNちゃんにこれから先も何の興味も持ちそうにもなかった。別にNNちゃんに興味を持っている独身の男性もいた。私の将棋の相手で、私と三人で今宮恵比寿に行ったことがある。私はこちらを勧めたのだが、彼女は首を縦に振らない。よく聞くとトラウマがあるのだ。男性が近づくと、あの日の恐怖が蘇るのだと言う。裸足で逃げた思い出。19歳で止まってしまった自分の青春。

居酒屋の主人を見ていると心が安らぐのだと言う。
その居酒屋には私もよく行って将棋をするようになっていたので、私が京都の病院に入院した時、その彼もお見舞いに来てくれた。人懐っこい純朴な大将だ。彼が帰った後NNちゃんはこう言った。
NN「あの人はね、何の苦労もないように明るく振舞っているけれど、実は凄い過去があるのよ。そのことがあってから、もう自分の人生に何も望むまい、と思ったんだって」B「・・・」
NN「車を運転していて、おばあさんを轢いてしまったんだって。そして死んだ。悔やんでも悔やみきれない人生を背負っているのよ、あの人」
NN「あの人結婚してるけど、奥さんとはね、同情から結婚しただけなの」B「・・・・」
NN「奥さん、若いときにヤクザの親分に惚れて、家出して一緒に暮らしてた。だけど結局捨てられて。ボロボロになって帰ってきて、自殺未遂ばかりするようになって。奥さんのお母さんと仕事関係で知り合いだったので、あの人、何とか助けてやってほしいって頼まれて・・それで結婚したんだって」B「・・・・」

いろんな人生がある。NNちゃんは男性の人生に何か強く共感できるものを見て、その背負う重みに惚れたのだろう。男と女には何も性的関係だけがすべてではない。いろんな人生があっていい。いろんな恋があっていい。
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「ODEON」 par Georges MOUSTAKI
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Improvisation

何故三人がそこにいたのか思い出せない。そこ、とは俊夫の友人の谷田君の摂津本山の団地の一室。

谷田君は私と同じで、お父さんが病死していない。お母さんは帽子のデザイナー。嫁いでいるお姉さんは以前、神戸の「バイキング」の表紙デザインを担当していた、という。
小柄で内気な子に見えるのだが、まだ大学生なのに、夜は大阪ミナミのキャバレーでトランペットを吹いていた。学園祭のドサクサに、ヤクザからブルーフィルムを借りてきて、自宅でお金を取って秘密の上映会もしたらしい。度胸のある子だ。染色も自分で出来て、その日は好みの色に染めたヨットパーカーを着ていた。
それ以前にも、私一人で谷田君の家に行ったことがある。俊夫と車で摂津本山に向かっていて、高速で俊夫の車が故障した。私は一人でさっさと歩いて高速を降りた(高速道路には途中に階段が付いていて一般道路に降りることが出来る)。
一人で谷田君の家に行ったら、同じ団地の中に神戸新聞の「文芸評」を書いている知り合いの女性がいるので紹介すると言う。
ちょうど私は神戸の「風群」に初めての小説を発表したばかりだった。しかもその処女作を朝日新聞と神戸新聞が文芸評欄で大きく取り上げてくれた。会いに行った。
文芸評論家:お若いのですね。あの作品は40代くらいの人のものだと思ってました。強烈な印象でした。もう人生を見尽くした、たいていのことは経験し尽くした、あとは書くだけ、そういう人の作品だと・・
タイトルは「流れある群色」。すべて詩的表現のみを使って、しかも言葉の力に肉体が反応するくらいのストーリーを、と考えて書いた、ものだった。

谷田君はトランペットだけでなくオルガンもできる。思い出した。その日は支路遺さんの「疾走の終わり」の中の作品を私が初見で朗読して、谷田君がオルガンで即興演奏し、それを支路遺さん本人が録音作品化しようという企画で集まったのだった。

私は支路遺の詩集を手に猛烈な速度で疾走しまくった朗読をしている。支路遺さんはオープンリールのテイプを持参し緊張しまくって回している。谷田君は谷田君で楽譜なしの即興演奏である。ビシッと三人の呼吸が合って、次第に演奏は白熱、私は詩を朗読しながら、快感と恍惚に身を委ねた。三人とも真っ赤になって茹蛸状態である。そのうち谷田君が着ていたものを一枚一枚、演奏しながら脱ぎ捨て始めた。私の生涯においての最高のジャムセッションであった。
最高に仕上がった。一度支路遺さんにTapeを借りて、北新地のビルの一室の、現代音楽を聞かせる店で、回してもらったことがある。聞くだけで身体に火がつき血が逆流した。なにより谷田君が最高のジャズを演奏してくれていた。

支路遺はその直後に支路遺であることを放棄した。「あのテイプは、どうなったの?」何度か聞いた。詩集や詩誌や油絵と一緒に、全部の過去を処分したのだという。そう言われても、簡単に諦めはつかない。
「オレ、車が好きだからタクシーの運転手になろうと思うんだ」といい始めたり、大昔の話をしきりにしたり、最初の妻に会いに上京したり、薬をoverdoseして死にかけたり、今から思えば、彼は必死に底のない沼で、もがいていたのかもしれない。

「Bruxellesあのなあ、(暮らし)って重いんやで。オレはドアをドンドン叩いたのに、あいつは最後までドアを開けさえしなかった。(暮らし)の前には、愛も詩も、何もかも吹き飛ばされる」支路遺はそう言った。

そして支路遺耕治は消え、川井清澄は(暮らし)始めた。
「オレ、ミナミにマンション借りた。一度遊びに来てくれ」
白壁の部屋は黒のモノトーンの新品のインテリアでまとめられ、彼の編集企画能力同様、美的センスの良さに光輝いていた。
彼は市岡の過去、町工場の過去、苦渋に満ち息も絶え絶えだった支路遺耕治を、自らの意思で脱ぎ捨てようという新しい決意に満ちていた。
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Josephine BAKER 「Quand je pense a ca」

病院に友を見舞う

御堂筋画廊で支路遺さんの個展があった。久々にたなかひろこさん、センナヨオコさん、そして私の三人が誘い合って行くことになった。私はある人から支路遺さんの入院をチラリと聞いていた。画廊であったら3人で本人のお見舞いに行こうと思い、家を出る前に支路遺さんの自宅に電話して病院と病名を聞いた。

絵を見て著作を見て家族の人とも話して、画廊を出たところで2人に言った。
「実は・・(省略)今から3人でお見舞いに行こう」
事情を知っていた私と違い、2人は明らかに動揺した。2人共20年ぶりくらいの再会になる。昔と現実との距離を慌てて逆行し失った何かを再獲得する必要があったのだと思う。
難波御堂筋から西梅田まで3人で歩いた。住友病院についても二人は心の準備が出来かねていた。
「Bruxelles、先に行って私達が来ていることをまず知らせてきて。行っていいかどうか」
私は一人で病室に入った。
B「ひろ子さんもヨオコも一緒に来てる」
支「そうか、田中も来ているのか、二人を連れてきてくれ」

支「病気でもしなければ、会えなかったね。病気もいいもんだ」(たなかひろこ)
支「こうして三人に会えるんだったら、病気するのもいいなあ」(センナヨオコ)
志摩欣也が個人通信「DEKUNOBOU」7号、支路遺耕治追悼号を出したときの二人の追悼文からの抜粋である。二人ともこの日のことを書き、奇しくも同じ言葉を載せている。

支「死にそうになってそのまま入院した。こんなに元気なのは今日が初めてだ」
ーー薬で痛みきっていた彼しか知らない私には今までで一番元気そうな支路遺耕治だった、とセンナヨオコは書いている。ーー
ーー大変な病気のことを話すのですが、その日は元気そうだった、とたなかひろこも書いている。??
支路遺耕治は少しはしゃいで笑顔さへ見せた。
会社の人の見舞い人が来た。病室にも仕事の指示を仰ぐ電話がかかってきた。しかしそこには、昔の大阪の仲間たちだけが共有した思い出いっぱいの濃厚な時間がふわりと漂ったのだった。

一番古い友人の志摩欣也とたなかひろこは複雑な感情に身動きがとれず、葬儀には来なかった。最高幹部の一人となっていた支路遺は葬儀社の社葬で旅立った。部下に慕われていたのか泣いている人も多くいたが「疾走の終わり」の支路遺耕治を知る人はいくら見渡してもヨオコと私だけだった。
支路遺耕治の三人目の妻の連れ子(息子)が喪主をしていた。
「君をなくして、右腕を折られた思いだ。どうかこれからも、残されたご家族のこと、そして同じようにこれからの会社の行く末を見守ってください」と社長の挨拶があった。こうして支路遺耕治は二度死んだ。

同じく「DEKUNOBOU」追悼号に載せた私の文「支路遺耕治は二度死ぬ」は、編集の志摩の判断で前半2分の1が全部伏字のまま掲載された。私は支路遺から聞いたあることを書いた。それは後年支路遺が支路遺になるための決定的な幼児期の彼の記憶なのだが、編集の志摩は、編集者の立場から、掲載不可だと言った。どうやら支路遺はそのことを私にだけ言ったのだった。だからこそなを、それを書かねばならないと思った。支路遺の存在感の希薄さの根源と、心の痛みと悲しみがほとばしりでるような事実だ。志摩欣也とあきれるくらいに大喧嘩した。

参考資料(1)こちらの一番最後。こちらです。
参考資料(2)こちらです
参考資料(3)2002.8.7をご覧ください。こちらです
参考資料(4)こちらです
参考資料(5)下から10番目、こちらです
参考資料(6)志摩欣也の文、こちらです
参考資料(7)最初の妻、エリカ、こちらです
参考資料(8)こちらです
参考資料(9)こちらです
参考資料(10)作品目録など。こちらです
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Mort SHUMAN 「Le Lac Majeur」

三菱重工ビル爆破事件

フランスのテロはそろそろ沈静化するのだろうか?日本は国内でのテロをあまり経験していない国だ。だからオウム事件があったとき、海外のメディアは驚いた。日本に今までなかった種類の犯罪だった。

もう何年前か忘れたけれど三菱重工ビル爆破事件という、テロがあった。
仕事の帰り親友の姫神さんと会って食事をしていた時に、そのニュースを知った。丸の内の三菱重工ビル。もう学生運動は何年も前に終焉していた筈なのに。家に帰ってフト思った。ひょっとして、日登敬子さんの仕事場があるビルではなかったか。そうだ、間違いない。
日登さんには会っていない。一度私がBOXERの川上林成氏の招待で上京した時、そこに電話がかかってきた。もう一度は詩集「2N世代」の出版記念会の時、東京から電話で参加してもらった。
「Bookendごっこ、僕も読みましたよ。僕ですか?吉田のジョーと申します」今年の6月に亡くなった吉田城が日登さんからの電話に出たのを覚えている。話したのはその2回きりだけれど、彼女は一時期私の心のすぐ近くに存在していた。一番好きな詩人だった。このサイトの日記タイトル「そのほかの日々」も実は彼女の作品タイトルを借りている。朗読もたくさんした。自分の作品より彼女の作品の朗読テイプの方が多いくらいだ。文通をしていたが私から電話をかけたことはない。そしてその頃はもう文通は終わっていた。彼女に会う前に彼女の友人のGribouilleに会い、私はすっかりGribouilleにハマッていたからだ。
受話器の前でウロウロした。大丈夫だろうか?会う前に死んだりしないだろうか。仕事で外出していればよかったのだけれど。

彼女と知り合った頃、彼女は高校の美術の教師だった(後に上京してコピーライターになった)。彼女の手紙は便箋の質も色もインクの色もいつも工夫が凝らしてあった。最後にお別れの手紙が来たとき、白紙だったので、唖然とした。どこかに何か書いてあるのではないか、ひょっとして炙り出しか?斜めに透かして見たら、字は白い紙に白いインクで書かれていた。
私が美術手帖を読んだり、画廊でグループ展をするようになったきっかけは、明らかに彼女の影響だったと思う。Gribouilleの絵と出合ったのも、彼女を通してだった。

めったに自分から誰にも電話はしないのに、思い切って決心をしてダイヤルを回した。アパートにいるかどうかもわからない。どきどきする。
B「もしもし。ニュースで事件を知ったけど、大丈夫でしたか?」
日登「あっ、、Bruxellesね、ちょうど今病院から帰ってきたところ」
B「ケガしたの?」
日登「今、頭に包帯を巻いている。でも外傷だけだから、大丈夫よ」
B「・・・・」
日登「誰だか知らない人が、誰だか知らない人の命を狙う、なんて憤りを感じる。でもどこに向けていいかさえ、わからない。Bruxellesわざわざ電話してくれて有難う」
B「・・・・」

よかった、受話器の向こうに彼女はいる。もう絶縁して随分になるのに、名乗る前に、声を聞いてすぐに思い出してくれた。
「あっ、、Bruxelles?」

言葉の力だけを信じて、言葉の力だけで生きていた頃、私には現実はなく、言葉だけがあった。20歳で入院し、絶望の真っ只中にいた時、彼女の詩に出会った。言葉の感応に出会った。そして私は言葉による存在の抽象化に挑んだのだった。

あの人が無事でよかった。電話して声と言葉が聞けて、たくさんのことを確認できて、よかった。

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  Marcel MOULOUDJI 「Un jour tu verras」

病院の中の英会話教室

キミがジャズダンスを習っているので、1度教室に見に来てほしいと言う。近鉄会館まで行った。曲は「フラッシュダンス」。生徒さんたちが踊っている。
「こちらが私の英語の先生です」終わったあとキミがダンス教師に私を紹介する。吉津たかしという名のOSKの人だった。

キミが今度はあやめ池にOSKを見に行くので付き合ってほしいと言う。吉津さんが出るらしいので花束を買って2,3度見に行った。舞台で見ると吉津さんだけ、どう見ても男に見える。
「キミ、あの人のバーで、毎晩飲んでるの?」「はい、そうです」
(その後吉津さんはOSKの存続、及び新生OSKの誕生の中心人物となってマスコミに登場した)

キミは四ツ橋のO病院の検査部門で働いている。何年か後、そのキミの紹介で、そこの理事長に会うことになった。
「新空港ができると、この入り口にちょうどモノレールが来る。この病院も国際化したいので病院の職員たちに病院に必要な英会話を教えてくれないか」ということだった。場所は8階の大会議室、テクストは私の書き下ろしで、文書課の人がワープロで製作する。期間は○○、時間は××・・いろいろPLANを考えなければならない。
この理事長は院長の親戚で病院のほかに、コンピューター会社、自動車教習所、その他多角経営をしている敏腕実業家だ。
「僕はねBruxellesさん、若いときから病院のビルを建てたいとずっとイメージしてたんですよ。うちの病院はね、おかげで空ベッド率が低いんです・・」

結局スタートした英会話教室に理事長は来なかったが、院長や婦長も来た。院長は腰の低い人で、率先してレッスンを盛り上げてくれたし、婦長も頑張って応援態度をとってくれた。これだけ学習意欲の高い多くの生徒を前にして非常に授業はやりやすかった。
元生徒のメグもキミからその話を聞いて「私も助手としてそのレッスンに参加したい」と言い出して、やってきた。年配のメグがビシッとブランド物のスーツを着て、プリントを配ったり黒板を消したりアシスタントをするので、さながら私は大先生だ。

言葉のわからない外国人の患者も不安を感じずに治療を受けられるように、廊下にカラーの線を引いたり、各科のドアを絵表示したり、薬袋の説明を簡素化したり、英会話以外のアイデアも出した。

予定通り5ヶ月で終わった時が、ちょうど忘年会の季節で、私も招待された。O病院は高速道路からも見える四ツ橋の大病院だ。院長をはじめスタッフの心がひとつになっていて、活力のある信頼できる病院だと思った。経営もあの理事長がいる限り大丈夫だ。
私に新しい楽しい経験をさせてくれたキミに感謝した。
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Laisse-moi vivre ma vie」par  Frederic Francois
このドーナツ盤のレコードを実は持っている。私はミーハー?
この曲はなかなかいい。Fredericがたまたまハンサムなだけだ。

母から姑になると言うこと

藤本由紀夫を紹介してくれた芸大の山野さんはその後お見合いして結婚した。結婚式の日「嫌だ嫌だ」と泣いたという。牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、背も低く全く魅力を感じない相手だと言っていた。会うといつも分厚い洋書を持っていてなんだか頭はよさそうだと。会社は三井物産、実家は資産家、それが決め手になったのだろうか?こういう結婚をするひとは物凄く多い。はじめから子供は産まないと決めていたのか、産む気配は全くなかった。一体どんな人生を生きるつもりなのだろうか?
版画を止めて油絵を描き始めた。夫の転勤で間もなく上京、新宿のマンションに入居した。そのマンションの近くに別のマンションを相手のお父さんに買ってもらって、そこをアトリエとして、本格的に油絵の修業を始めた。絵のサークルの活動で外出する以外は一日中アトリエに篭もっている事が多いという。そして2,3年に1度、大阪で個展をするようになった。私も何度か見に行った。その時は昔の生徒のキミを連れて行った。心斎橋の画廊だ。ここは他の友人も使うので以前にも何度か来たことがある。2階に上がっていく。

山野さんのお母さんと弟さんがいた。お母さんは明るい人で「私ね、Bruxellesさん、子供らに北尾に似てるって言われますねん」と言う。よく見ると横綱北尾に似ていなくもない。クックックッ、そんなこと自分で言う人いる?椅子に座ってお菓子を食べながらキミと二人で吹き出してしまった。楽しいお母さんだ。大阪のお母さん、人に笑ってもらって、さらに気をよくして嬉しくなったのか、話があらぬ方向に飛んだ。
「Bruxellesさんのお連れの方、うちの息子と結婚しませんか?」えぇ!
キミがビックリする。同席していた山野さんもお母さんと一緒になって言う。
「弟どうですか?実家の跡取りです」
山野家は上三人が女、一番下が弟。この弟が工場を継ぐことになる。迫力あるお母さんのそばで、気の弱そうな弟さんだ。
キミはとても若く見える。けれどきっとキミのほうが年上だろう。キミは20歳になった時、お酒と煙草と化粧をキッパリ止めた、という娘だ。確かにかなりの美人で、私の生徒だった頃、勤め先の病院の院長の息子と付き合っていた。この娘は物凄くタフで、アルコールに強く、実は毎晩午前2時までダンス教師(元OSKのトップ)が副業でしているバーに入り浸っている。夜の時間を楽しんでいる娘だ。・・・

あれから何年後だったろう。やはり山野さんが今度は大丸で個展をした時だ。電話がかかってきた。弟の子供が病気なので、今から母とお嫁さんと子供が、Bruxellesさんの家の近くの病院に行く。私もBruxellesさんに会いたいので、一緒に行く、ということだった。
私の方が病院に出向いた。北尾お母さんに会ってみたかったからだ。そして会った。物凄いショックを受けた。北尾お母さんはまるで覇気を失って表情さえ喪失していた。何年かの間にまるで魂を取られた人、別人のようになっていた。

「何かあったの?」と山野さんに聞いた。おとなしいお嫁さんなのに、ことごとく母と合わず、母が、山野さんを含めた娘3人に愚痴り始めた。その時すでに嫁いでいた3人の娘が口を揃えてこういったらしい。
「お母さん、時代が違う。考えも違って当たり前。お母さんが譲るしかない。お嫁さんに従うこと。お母さんは一切自己主張しないこと。そうすれば万事うまくいく」
北尾お母さんは娘3人にそう言われ、ショックのあまり一切の言葉を呑み込み、詰まらせ、感情的に窒息死してしまったのだろう。母老いて一人、味方なし。あまりの変わりように気の毒で心が潰れそうだった。

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Jean Jacques Goldman 「A Nos Actes Manques」

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2005-11

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