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病院に友を見舞う

御堂筋画廊で支路遺さんの個展があった。久々にたなかひろこさん、センナヨオコさん、そして私の三人が誘い合って行くことになった。私はある人から支路遺さんの入院をチラリと聞いていた。画廊であったら3人で本人のお見舞いに行こうと思い、家を出る前に支路遺さんの自宅に電話して病院と病名を聞いた。

絵を見て著作を見て家族の人とも話して、画廊を出たところで2人に言った。
「実は・・(省略)今から3人でお見舞いに行こう」
事情を知っていた私と違い、2人は明らかに動揺した。2人共20年ぶりくらいの再会になる。昔と現実との距離を慌てて逆行し失った何かを再獲得する必要があったのだと思う。
難波御堂筋から西梅田まで3人で歩いた。住友病院についても二人は心の準備が出来かねていた。
「Bruxelles、先に行って私達が来ていることをまず知らせてきて。行っていいかどうか」
私は一人で病室に入った。
B「ひろ子さんもヨオコも一緒に来てる」
支「そうか、田中も来ているのか、二人を連れてきてくれ」

支「病気でもしなければ、会えなかったね。病気もいいもんだ」(たなかひろこ)
支「こうして三人に会えるんだったら、病気するのもいいなあ」(センナヨオコ)
志摩欣也が個人通信「DEKUNOBOU」7号、支路遺耕治追悼号を出したときの二人の追悼文からの抜粋である。二人ともこの日のことを書き、奇しくも同じ言葉を載せている。

支「死にそうになってそのまま入院した。こんなに元気なのは今日が初めてだ」
ーー薬で痛みきっていた彼しか知らない私には今までで一番元気そうな支路遺耕治だった、とセンナヨオコは書いている。ーー
ーー大変な病気のことを話すのですが、その日は元気そうだった、とたなかひろこも書いている。??
支路遺耕治は少しはしゃいで笑顔さへ見せた。
会社の人の見舞い人が来た。病室にも仕事の指示を仰ぐ電話がかかってきた。しかしそこには、昔の大阪の仲間たちだけが共有した思い出いっぱいの濃厚な時間がふわりと漂ったのだった。

一番古い友人の志摩欣也とたなかひろこは複雑な感情に身動きがとれず、葬儀には来なかった。最高幹部の一人となっていた支路遺は葬儀社の社葬で旅立った。部下に慕われていたのか泣いている人も多くいたが「疾走の終わり」の支路遺耕治を知る人はいくら見渡してもヨオコと私だけだった。
支路遺耕治の三人目の妻の連れ子(息子)が喪主をしていた。
「君をなくして、右腕を折られた思いだ。どうかこれからも、残されたご家族のこと、そして同じようにこれからの会社の行く末を見守ってください」と社長の挨拶があった。こうして支路遺耕治は二度死んだ。

同じく「DEKUNOBOU」追悼号に載せた私の文「支路遺耕治は二度死ぬ」は、編集の志摩の判断で前半2分の1が全部伏字のまま掲載された。私は支路遺から聞いたあることを書いた。それは後年支路遺が支路遺になるための決定的な幼児期の彼の記憶なのだが、編集の志摩は、編集者の立場から、掲載不可だと言った。どうやら支路遺はそのことを私にだけ言ったのだった。だからこそなを、それを書かねばならないと思った。支路遺の存在感の希薄さの根源と、心の痛みと悲しみがほとばしりでるような事実だ。志摩欣也とあきれるくらいに大喧嘩した。

参考資料(1)こちらの一番最後。こちらです。
参考資料(2)こちらです
参考資料(3)2002.8.7をご覧ください。こちらです
参考資料(4)こちらです
参考資料(5)下から10番目、こちらです
参考資料(6)志摩欣也の文、こちらです
参考資料(7)最初の妻、エリカ、こちらです
参考資料(8)こちらです
参考資料(9)こちらです
参考資料(10)作品目録など。こちらです
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Mort SHUMAN 「Le Lac Majeur」
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