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わたしの昭和史 少年篇 西尾幹二著 に触れながら

実は10年くらい前?図書館でもっと巨大でぎっしり字の詰まった類似本を手にしたことがある。中をペラペラと読んでその文字の量と質に圧倒され、こんなに頭のいい人に近づくのは10早いと思った。今回図書館で調べてもらったら、そんな本はないということだったので、わたしの昭和史 Ⅰ、Ⅱ、と2冊借りてきた。
今回この2冊を読んで、現在の西尾氏はあるべくしてここに至った方だと思った。
人間は決して個ではなく、父母がありそして分離し難い存在としての私がある、と書いておられた。確かにこの本はその実証そのものであると思った。紛れもなくこの父母あるゆえに現在がある。おそらく皆がそうなのだろうが、この飛びぬけた知の巨人は、運命的にある種の使命を持って特別な星の下に生まれたと言えるだろう。
この少年は家族だけでなく教師たちとも真剣に向き合っている。少年が向き合うというより、教師たちの方がこの少年に何かを感じて体当たりしてきているようにも思えるが、客観的に見てすでに格が違う。子供らしく素直なのだが、言葉をもって獲得している世界認識の水準が並みの大人では到底追いつけないレベルに達している。家族だけでなく教師や友達にも恵まれ少年らしくすくすくと発達していくのだけれど、幼くして「言語によって思考を構築し、それを自由自在に操り、独自の論理を組立て展開する能力」は、飛び抜けている。つまり洗脳や、洗脳されたものの譫言を跳ね除ける知性と言語能力を完成させているのだ。
私も西尾氏のように幼くして短詩形文学に親しみ、詩を書き詩集を出版し、小説を書き認められ出版され、さらに言語論も様々に書いてきたが、その早熟度においては比較にならない。

少年篇ー1、から私が特に注目した点をひとつに限定して取り出すとするとそれは、西尾秀太郎氏、即ちお父上がりんご箱に残された昭和7年発行の小冊子である。
「連盟の全権の強行態度に関して」、この内容は私がTel Quel Japonの核としている内容・主張とほぼ一致する。ので大変驚いた。私は松岡の頑張りと孤軍奮闘に一番心を動かされている、多分13才くらいから単身渡米し、ロサンゼルス大学の文学部と法学部を卒業して25才くらいで帰国したという祖父の姿を重ねているのかもしれない。本来外交官に必須の祖国への愛と誇りを持って対等に発言し、言をもって堂々と立つ心意気は、私は松岡にしか認めることが出来ないのだ。ハーバードの留学生たちは皆啓蒙され日本よりも米国の支配階級に身を近づけている。即ち屈しているのである。

少年篇ー2、に関して、やはり一点に限定して取り出すと「教師や学校との一騎討ち、と遠田イズムの結果としての学力の低下」である。
わたしの人生の中では学校や教師はほとんど意味をなさないので、そこが全く違っていて多少驚いた。
私の祖母は「教師が過大に尊敬される土地は、それだけ文化が低い。文化が高い土地では、教師の地位は逆に低い」という説を唱えていて、自分が焼け出され着の身着のままで辿りついたこの田舎(田舎の人は都会というが)にはデモシカしかいない筈だと常に言っていた。それゆえ生意気に聞こえるかもしれないが、自分を磨くために接するべき人間は身の回りにはいない、まして学校にはいないと考えていた。私が現実に足を置かずに、幼いうちから文学に関わっていたのは、そのへんに原因があるのかもしれない。それだけでなく私はひどい喘息の持病があり、実際ほとんど登校出来ず、言い換えれば常に現実を奪われており、結果いつ死んでもおかしくない子供時代を過ごした。中学一年生の時には出席が完全に不足して、見通しが立たず「医師看護婦が常駐する寄宿舎付きの養護学校」送りとなった。そこを一年で逃げ出してくるのであるが、こんな状態なので公立中学に戻ってきた時には目も当てられない席次だった。祖母は一番でもビリでもこんな田舎の学校では何の違いもない、席次などで教師に評価されることを屈辱と思え、と教えた。学校などいかほどのものか。自分の価値は自分で作り出せと言った。そのくせ、どこの大学にはどんな教授がいて、その大学のランキングはどの程度で云々に関しては、驚異的な情報を持っていた。
私は20歳まで生きまいと医者などにも言われていたので、期待もなく絶望もなく、この世に執着もなく生きた。ただこの祖母は私の中に何を見出せば、評価してくれるのだろうか、とは考えた。ましてや女の子である。知に偏らず、出世などは論外、格闘家になるわけにもいかず...。その結果「どうせ死ぬのなら美しく死のう。愛ゆえに誰かと心中しよう。ロマンチックな情死がいい」が私の人生における夢となり目的となった。西尾幹二氏が男として立ち上がり決然として自分の人生を歩み始められる年齢と同じ年齢における、これが恥ずかしくも私の姿であった。祖母は私が20歳の頃にこの世を去った。私は20歳を過ぎてもまだ死ななかった。


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