PLANETEに戻る

Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゴールド・クレスト

gold1.jpg
クレストを買ってきたのは何年前か思い出せない。植木鉢に入れたのだが、すぐにへたってきた。緑色は何処えやら、藁のように茶色くなって、ひょろひょろで捨てなくてはと思って外に出た。近所のおばさんが通りかかって「地植えにしたら」とアドバイスをくれた。地植えにしても育たないだろうと思ったが、取りあえず地植えにした。35センチ位の高さ。それが地植えにした途端どんどん大きくなった。1メートルを超えたときは吃驚した。2メートルを超えたときはもっとびっくりした。でもそれくらいならクリスマスに飾りつけをして楽しむ余裕があった。3メートルを越えたあたりから心配になってきた。さらに電線に当たるようになった。中高の同窓生で市役所に勤めているY君に偶然会ったので「高枝バサミ」を借りることにした。彼は高枝バサミ持参でやってきて、自ら切ってくれようとした。ただ梯子に乗るのが苦手みたいで、その上「高枝バサミ」をうまく使えない。手元で操作するのだが、見ているとなかなか難しそうだ。20分ほど奮闘してくれたが、15センチくらいしか低くはならなかった。それでも少しは安心していたのだが、またどんどん大きくなり、電線を巻き込んで屋根を超え4、5メートルを超えて、横も太りすぎてきた。どうしようかといろいろ悩んで、関電に電話することにした。「風が吹いたら電線を揺らす。雨にぬれてそのままだと感電する恐れがある」と必死で頼んでみた。木が巻き込んだ電線はいくつもあり、それが関電のものかどうかわからなかったが、以前隣組の組長をしている時に、関電ならそういうサービスをするということを聞いていた。関電から下見の人達が来た。「切り取った枝は自分で始末してください。時に木が枯れる場合もありますが、了承してください。」「はいはい、わかりました。よろしくお願いします」
我が家は屋根が激しく傷んでいるので、梯子が当たって、瓦がずり落ちることが一番の心配であったので、「必ず立ち会うので、前もってこられる日時を連絡してください」と言った。梯子をかけることができないので、植木屋さん用の梯子を使って欲しかった。今回は1メートル50センチ位切るので、切った枝が屋根に落ちることも心配だった。どんな梯子を持ってくるのだろう。チェーンソウで切るのだろうか。ノコギリだろうか、そしたらその時木は大きく揺れるだろう。間違って電線を切らないだろうか?
今日5人くらいの男性がやってきた。梯子は植木屋さん用の梯子。安心した。切る人はどうやら一人だが、造園会社から出向してきた専門家のようだ。のこぎりやチェーンソウではない。結構小さなハサミを使っている。それがまたびっくりするほどよく切れる。しかも用途に合わせていろんな種類の小さなハサミを、あれこれと使い分けている。ほかの人は全く汗をかいていなかったが、その人だけは汗だくだ。梯子の上での作業はプロでも重労働なのだろう。このゴールド・クレストは何年もの間悩みの種だったが、この人たちはやって来て15分ほどで、全ての作業を終えて、あっという間に帰っていった。その仕事ぶりは感動するほど鮮やかだった。
来た人の中で一番年配のひとが言っていたが、このクレストが育ちすぎて、困っている人たちが結構いるらしい。クレストは梯子に登っても、テッペンに手が届かなくなったら、素人はお手上げだと、思ったほうがいい。松の木なら木の中に登って入って、ノコギリやチェーンソウで切ることができるが、登るわけにはいかないし、木そのものに梯子をかけるわけにもいかない。そして高枝バサミでは、伸びすぎた高さそのものを切って低くすることは、不可能のようだ。高枝バサミは高いところの枝をきるハサミで、木そのものの身長を低くすることは出来ない。
ホームセンターで高枝バサミを買ってきて自分でなんとかしようなどと思わなかったことが、今回は幸いした。

社会人になろうとした夏

歩いて5分のTSUTAYAに行ってABBAのCDを借りてきた。何故かABBAを聴きたくなった。
私は20歳までに死ぬと言われていたので、20歳を過ぎてからどう生きていいかわからなかった。今から思うと私は長い間自分をArtistだと認識していた。1978年、ABBA THE MOVIEとともにABBAの大ブームが日本で起きた。昭和で言うと53年、あの年私は初めて社会人という認識を持ったように思う。それまで地球からはみ出て、足を宙に浮かせて、面白おかしく生きてきたが、あの年、私はそれを止めた。
夏になると予備校や会話学校では夏期集中講座というのがある。私は初めて英会話の夏期集中講座を担当したのだ。8月、土日も含めてたしか16日間連続、毎日8、9時間の英語漬け。英会話講師になって2年目だ。そこの学校のシステムと私の言語観が合わなくて、最初何度も追加研修に行かされた。学監が回ってきて観察、結果本部に呼び戻されての再研修である。「またですか、私はこの仕事、向いてないのかもしれません。マシーンにはなりきれません。やめたほうがいいかもしれません」すると学監が言った。「Bruxellesさんは得難い人材です。いずれこの学校の財産になってもらいたい。だから学校のシステムに熟知していただくために、繰り返し研修に行ってもらっているのです」そこまで言われたら、私自身が学校に合わせるしかない。53年の夏期集中講座は校舎の場所も違えば生徒の数も普段の3倍、担当講師の選抜も厳しいはずだ。言わば、学校という組織全体の看板授業である。まずは講師の研修が行われた。私の相方は講師ではなく正社員のK先生。若くてハンサムでギターの弾き語りができる。そのうえ超張り切り坊やである。私も同じくらいにテンションを高めなくてはいけない。私が午前、彼が午後の担当と決まっていた。私は今までずっと夜のクラスの担当であった。まず生活のリズムを切り替えなければいけない。朝早く起きる、などということが私に出来るだろうか?「はじめまして、どうぞよろしく」K先生にまずは挨拶だ。
教材を7冊ほど渡される。それぞれ毎回何分、何ペイジ進むか、すでにプログラムが出来ている。休憩時間は場所を変えて、ロビーで外人講師を交えてのfree talk。内気な生徒も口を開けるように、様々な工夫が組み込まれている。それから各教材の使い方から授業展開の模擬レッスンである。ついてこれない生徒や気力の萎えかかっている生徒はいち早く見つけ出して、授業に引き戻さなければならない。緊張してシーンとさせるのも、笑いを交えてリラックスさせるのも、全部講師の技量にかかっている。教材は教材開発部があって独自のメソッドを打ち立てている。ここは製薬会社の新薬開発部に似て、学校の心臓部だということがわかってきた。マニュアル化すれば、フランチャイズ化できる。つまり、教材やシステムやマニュアルはすでにパッケージ商品で、講師は販売員のようなものだ。講師研修とは即ち販売員教育なのだと、いろんなことがわかってきた。
「私の担当クラスの生徒のレベルはどれくらいなのですか?」ー「ここに来るような人は、すでに40万50万の教材を買って、あるいは他の会話学校にも行って、結果挫折した経験があるひとがほとんどと思っていい。失敗の原因は何かというと、声を出して英語を話す時間が足りないということ。人との言葉の応答の訓練が足りないということ。会話経験にならないということ。この学校のメソッドはその獲得に重点を置いている。知識を与えるのではない、声を出して英語をしゃべるという経験を与える。教材はそのための工夫がなされています。従って知のレベルや英語のレベルは問題ではない。」
「逆に聞きますが、生徒たちはお金を払って、何を求めに来るのだと思いますか」ー「英会話力を高めるためではありませんか」ー「16日間という短期間の経験知を数値化することは不可能です。政治経済に無知な人が、会話体験を経たからといって、急に会話内容や人間が高度になるはずもないのです。この学校が授業料の対価として与えるものは満足感です。これにつきます。皆さんの評価もそれで決まります。覚えておいてください。栄養を摂取するためにわざわざ高級レストランに行く人はいないでしょう。人は満足感にしか、特別なお金を支払いません」
私の中のArtistがとても小さくなって、そのArtistに社会人という服を初めて着せた。
早い話が頭の中に英語がセンテンスとして入っていない人は、英文を構成することができない。まして喋れはしない。だからまず、短い疑問文を復唱させて暗記させる。次にその答えを復唱させて暗記させる。全員が暗記できたところで、疑問文を投げかける。one two threeと間を置いて、全員の頭の中に答えが浮かんだ頃に、一人を指名し、立って答えを英語で言わせる。全員が会話の成立場面を目撃、体験するわけである。間髪を容れず全員に同じ疑問文を投げかけ、それに対してすぐに全員が答えを復唱する。ここの学校の独自のメソッドは暗記させる、というところにあるので、このへんの開示は問題ないだろう。もし当てられた生徒が、答えを英語で言えなかった場合は、いきなり別の人を指名し立たせ、その人に質問を投げかけ、その人に答えさせる。答えが正解の場合は先ほど答えられなかった人に同じ質問を投げかけ、その人に答えを言わせる。そして両者を座らせる。答えられなかった人もバツの悪い時間を体験することなく、また結果的には正しい応答を体験して、できたという満足を得るわけだ。そのあとは先ほどと同じで、全員に質問を投げかけ、全員が答える。喉がカラカラになるまで教室にはほとんど全員の「英語の声」が延々と鳴り響くわけである。反復が主体なので記憶力に自信のない人も、不安にはならず、内気な人も気がつけば声に出して英語を話している自分を見出している、というわけだ。これは英語で声を出させる、という工夫の一例に過ぎないがよくできていると思う。語学の教授法というのは言語学者が日々取り組んでいる課題で、このような35年も前の方法が今も続けられているとは考えられないが。この集中講座10日目くらいに入ると、多くの生徒は夢の中で英語をしゃべるようになる。校舎のなかはAll ENGLISHなので、頭も外国仕様になる。それから全員が英語風名前を使用するので、生徒同士が英語で喋っていても違和感がなくなる。私は普段の授業では英語名を使用していなかったが、夏期集中では使用した。それが文頭に書いたCD、スエーデンのグループ、ABBAである。理由は4人分のパワーを持ちたかったからという単純なものである。

「満足度はどのように数値化するのですか」ー「簡単です。秋からのクラスに何%の生徒が継続するかどうかで決まりです」
これだけが原因ではないが、講師研修会の昼休みに、控え室に集まった夏期集中担当者たちの間から、あれこれと苦情が出た。主にここに登場しなかった〇〇部長の高圧的ヤクザ的物言いに対してである。私のように今まで遊び半分に仕事をしてきた人間には、いろいろ考えさせられることが多かった。つまりは仕事に取り組む姿勢である。そして資本主義社会の厳しさである。管理締め付けは、組織だけでなく、自分自身にも必要だと初めて認識した。目的のためには工夫が必要であり、その工夫は徹底的に緻密でなければいけない。アーティストの自己認識やアウトローという自己規定では、社会人としては生きていけない。どの程度成功するかはわからないが、私は生き方を変えなければ、そうまず時間厳守と世間並の早起きから生活を変えなければ、社会ではこの先やっていけないと、初めて気づいた。
昼休みの講師控え室に、驚いたことにひとり本部職員が紛れ込んでいた。その人は飛び交う苦情に対し、ついに隠し通せなくなったのか、みんなの顔を見回し小さくなってこう言った。「実は、みなさんがいま批判している〇〇部長にここに居るように言われている職員です。ごめんなさい。誰がどんな不満や苦情をここで言っているかを、〇〇部長に報告する役割で、ここにいます」
そこまでするか、の声もなく、そのあと批判がピタリとやんだのは言うまでもない。「成功のためには工夫が必要であり、その工夫は徹底的に緻密でなければならない」それがビジネスのプロである。確かに。それにしても〇〇部長のビジネス手腕、感嘆すべきか嫌悪すべきか、社会人のスタートラインにたったばかりの者には判断がつき兼ねた。

福田恆存

ここに以下のような福田恆存氏の文章が引用されている。
「日本人にとつて、どつちが正しいかといふことは二義的なことなのです。大切なのは摩擦といふ醜い状態から早く脱して、和合に到達することであります」
最近あちこちのBlogでこの引用を見る。さすがは福田恆存氏、すごいことを見抜いておられる。

10数年前、隣のビルの寿司屋のモーター音で、家中が船底状態になって、日常生活がおくれなくなったことがあった。一番最初に会った、高校時代の友人のY君に「まず市役所に音の測定を依頼しようと思っている。市民が平穏に暮らすための条例があるはずだから」というようなことを相当思いつめて言った。それに対してY君は意外なことに「そんなことはしないほうがいい」と言った。高校時代から彼はいつもわたしを守る、というpositionをとってくれた。この時も母を亡くしたわたしを気遣って食事に誘ってくれたのだった。ではどうすればいいか、と問うと「我慢しろ」ということになる。我慢できる範囲なら誰だって、我慢を選ぶ。ただ彼は「そんなことをしたら、近所と諍いが起こる。君一人では耐えられないだろう。大変なことになる。やめろ」というわけだ。
その時ものすごくびっくりしたのを覚えている。なぜそう言う発想になるのか?なぜ解決を考えないのか?他人事だからか?問題化することはいけないことなのか?それこそが解決のスタートになるのではないか?
それが長い間謎だったが、上の引用でよくわかる。彼は普通の日本人なのだ。日本人にとっては問題を解決することよりも「摩擦を避けること」が最優先なのだろう。彼は解決については何も言わなかったが、ほかの人の意見によると「引越ししなさい」が圧倒的に多かった。近所に一件空家があったが、その空家と家を交換してもらいなさい、というアドバイスもあった。空家は私の家よりも随分小さく、しかも廃屋に近かった。どういう神経でそんな失礼なことを言うのか、とかなり腹が立ったが、その人はそのひとなりの親切心からの助言のつもりだろう。
友達や親戚でも、人が落ち込んでしまった問題には、まず関わり合いたくないのだろう、とその時は思った。市役所自体が騒音の測定をまともにしなかった、データーの提出を拒んだ。最後はあからさまなデタラメを言った。市役所は当然第三者であり、どちらが正しいかなど、どうでもいいのだ。問題そのものが、存在しないことにしたい、そういう態度があからさまだった。それを友人や親戚に相談しても「役所とはそういうところですよ」という。「そんなことも知らなかったのか」と言った昔からの友達(YS)もいた。確かに私は日本とはそういう社会である、ということをその時まで知らなかった。当時はたくさんの友人がいて、たくさんの友人に相談したが、皆同じような態度だった。解決など全く考えない。皆それぞれ問題を抱えていて、必死で生きていて、人のことにかまっていられないのかな、と思ったが、どうもそうではないらしい。結論から言うと、全員の意見や態度はひとつにまとまる。「摩擦を起こさないこと。決して争わないこと」こそが最優先の最大の善なのだ。
上の福田恆存氏の文章からの引用を読んで、ようやくあの時のモヤモヤが、すっきりしたような気がする。

和を持って貴しとなす、などという日本の国是は、問題の分析どころか、問題点の抽出さえしない。多くの場合被害者を説得して口封じに励む、「まーまーここはひとつ穏便に、手打ち手拍子、えっさっさ」というごまかしである。アメリカでトヨタが裁判に引っ張り出されるような理不尽ないじめにあっても、中国でユニクロがテロで破壊されても、韓国とのサッカーの試合で繰り返し国の歴史を侮辱されても、日本人はその怒りを(自分が直接損害を受けるわけではないと思うからなのか)すぐに忘れる。そうだ確かに福田恆存氏のご発言は日本人の性質を射抜いている。とは言え福田恆存氏を讃えるためにこの文章を書いているわけではない。
原爆を落としたアメリカが与えたあの日本国憲法の前文、ご存知だろうか?あの馬鹿馬鹿しい前文は、皮肉なことに、日本人の特性にぴったりと符合するではないか。それゆえ日本人は体質的に護憲派であり謝罪派なのだろう。このままでは日本人は「正しいかどうか」を白日の下に徹底的に掘り下げることがどれだけ重要かを、永遠に知ることはできないだろう。

府民共済保険

若い時は保険などという概念がまず嫌いだった。誰が考えたかしらないが、実体のないコンセプトだけの商売だ。人の心の不安を商売にする。差し出すものは「安心」という見えない価値だけ。濡れ手で泡。
でも交通事故で長期入院してから、保険の大切さを知った。それから郵便局の簡易保険にも入ったし、生命保険にも入った。すでにともに満期を迎え終わりにした。今入っているのはタイトルにある府民共済保険。
人間歳をとると孤独になる。周りの人も次々となくなるし、思い出を語れる人も少なくなる。孤独は当たり前だ。最近年をとるということは孤独だけでなく、社会的価値が少しづつ認められなくなることと同じだと考えるようになった。早い話が、そろそろ死んでもおかしくない、「えっ?まだあの人生きてるの?」などと言われるようになる。わかりやすく言うと、死んでも誰も悲しまなくなる。退場の潮時に近づき、潮時をいつか超える。死んでも誰も悲しまなくなるだけで無く、周りの人がほっとしたりして、あるいは少し喜んだりして。少なくとも命の価値は年齢とともに減少する、これは事実だ。
府民共済のパンフレット。月掛2000円のコース。18歳から60歳まで事故・病気の入院に対して保険金は一日10000円。同じコース同じ掛金なのに60歳から65歳までは7500円と値下がりする。(ほらね、年をとるだけで価値が下がる)65歳から70歳は5000円、70歳から80歳は3500円、80歳から85歳は2000円、どうです?一日10000円だったのが2000円。病気死亡の場合は、長年かけても一時金が3万円。生命保険ではなく入院保険なので、この3万円は仕方がないけれどね。歳をとると価値が下がる、ということを具体的に数字で示された気がする。
身体のどこかが悪くなって病院に行っても「もうお年ですから、仕方ないですね」と言われた、と怒っていたひとを何人か知っている。「医者のくせに直す気が無いように思える」らしい。そう言えば私も眼の調子が悪くなって眼科にいったら「飛蚊症です。これは加齢が原因ですから、治療方法はありません」とあっさり言われた経験がある。年取って手術を希望したら「その年でまだ手術までして生き延びたいのか」と言われた人もいる。死ぬ死なないは自分では決めようがないが、少しづつでも「退場」の心づもりをしておいたほうが、土壇場でのショックを少しは防げるかもしれない。マッカーサーではないが、死せずとも去りゆかねばならぬ時が誰にでも来る。
「老兵は死せず、ただ去りゆくのみ」この言葉は祖母から聞いた。源氏物語における出家のようなものだ。究極の出家は補陀落渡海なのだろう。府民共済のパンフレットは取りあえず破り捨てたが、一時金の数字が意味する事実からは逃げないでおこう。ここ15年のあいだに10回以上葬儀に出席したが、家族であろうと親戚であろうと、心が潰れるほど泣いている人をめったに見なくなった。日本人が長生きしすぎるようになったのも一因かもしれないが、人の情愛、家族の情愛が、希薄になっているのも確かだと思う。一言で言うと、日本人は薄情になっている、しかも急激に。そう思いませんか?

孤独、政治という宗教

「年寄りの気持ちは年寄りにならなければわからない」と祖母がよく言っていた。確かにそうかもしれない。最近祖母の気持ちがわかるように思う時が多い。
思い出すのは夫も子供も兄弟もいない祖母だ。たったひとりだけ甥がいたがもう甥自身が私の記憶では老人だったし、会いに来ることもなかった。その甥にとっても自分の子供時代を知っているのは祖母だけだ。祖母が亡くなったとき連絡しなければならなかったのは、その甥だけだった。
「おばさんが東京に住んでいたことがあって、遊びに行ってあちこち案内してもらった」という思い出を語られたが、初めて聞く話だった。祖母が東京に住んでいたって?想像もつかない。なぜ戻ってきたのだろう。いつごろのことなのだろうか。
考えてみれば私の知っている祖母はとことん孤独だった。社交的だったし、人当たりも良かったし、マナーも心得ていた。しかし晩年お友達は全くなかった。いかんせんかなりhighbrow過ぎたのだ。話題も話も近所の人たちとは全く合わない。私が二十歳の時に80歳でなくなったが、人生の最後の20年間、どんな思いで過ごしたのだろう。

最近カルトについて深く調べている。教団は人の心の孤独につけ入ってくる。そう思う。アンケートをお願いします、とか手相を見せてくださいとか、人通りの多いところで話しかけてくる。そしてビデオセミナーに誘う。最近マインドコントロールが解けて脱会したひとのvideoを国内・国外共にたくさん見たが、どうしてこんなものに引っかかるのだろうと、不思議に思うが、実際あちらにはマニュアルがあって、どんな人でも誘導されて、気がついたときには「もうここで生きるしかない」という状態まできてしまっている場合が多いようだ。誰でも引っかかるようにできているのだろう。人はかくも仲間を必要とする生き物なのだろうか?あるいは他力を必要とする生き物なのだろうか。

世の中には不思議なことも多い。科学では説明がつかないことも多く体験する。流れる水に落ちた枯葉のように感じることも確かに多いだろう。そんな時人は神の存在を希求する。そして宗教が口を開けて常に迷える子羊たちを待ち受けている。私は別に宗教を否定するものではない。しかし、調べれば調べるほどに、どんな集団も集金マシーンだと思う。快楽や物質的欲望を否定し、すべてを吐き出させる。そして信者を支配する。どの宗教も、絶対的服従を要求する。最近カルトについて多くを調べて特に思うのだが、宗教と政治は似ている。否一体化してきていると言ったほうが適切かもしれない。寄付をさせられるのに、寄付をさせていただく、というふうに思わせる。ありもしないご利益を授ける、というふうにgive and takeのバーターだと思わせるのだ。こういうふうに書いていると、お前は宗教とカルトを同列に論じているではないかとお叱りを受けるかもしれない。カルトばかり深く調べているので、確かに今の私の目には宗教とカルトの区別はついていない。そして政治の本質もカルトに近いと思うようになっている。

今保守のBlogで安倍晋三に裏切られた、という議論をよく見る。安倍晋三を信仰していた人達なのだろう。実績も能力も必要な胆力も何もないのに信者だった人たちがいたということだ。彼らの話を聞くとTPPに参加しません、という言葉を信じていたのに騙された、裏切られたということらしい。まだすがりついている人もいて、安倍さんは最後にはちゃんと交渉して国益に反しない条件を付加するはずだ、という意見もある。保守のBlogを見る限りではTPP断固反対が安倍氏の「売り」だったらしい。ところが今日のニュースを聞いて驚いた。NHKニュースでは「日本の参加が容認された」などと表現している。産経新聞も同じだ。つまりよく聞くと「安倍さんの命をかけた苦心惨憺の交渉のおかげで、参加など端から拒まれていた日本が、念願叶って、参加できるところにまでようやくこぎつけた」と意味づけているではないか。この調子なら今安倍さんに裏切られたと嘆いている保守の一部の人たちも、そのうち、マインド・コントロールにかかって「TPP参加万歳、安倍さん、ご苦労様、よくやってくださいました」などと感涙するのではないかと思う。「安倍さんを最後までお守りしましょう」とか「安倍さんに裏切られた」とか、そんな馬鹿馬鹿しいことをよく言うなと思う。政治家を「信じる」とか「お守りする」とか、その時点で既にカルトである。またカルトこそ所謂保守の体質であることは歴史が証明している。
戦後国民的連帯感をなくして人々はそれだけ孤独なのだろう。保守は特に孤独なのだろう。日本や日本人から奪い尽くそうと企んでいる国々ばかりだ。頼れるのは国内の保守の政治家しかいない。そういう状態で孤独なのだ。そして保守は孤独から逃れるために、そのためだけに「必死」なのだ。こういうふうに騒ぐBlogの多くは、歴史や国際政治の独自の検証など一切していない。だが保守の国民だけがこのようにカルト信者なのではない。保守の政治家自身が実はカルト信者なのだ。原因?日本は国として老いてしまった、そして保守の国民は現実的にはその老い故にとことん今孤独である。また日本国自体も国際社会の中で既に充分に長い間、危機的にまで本質的には孤独で有り続けてきたことも忘れないでおきたい。

飛行船

昨日お天気が良かったので、電車に乗ってお墓参りに出かけた。
お墓から引き上げようとして左の上の空を見上げたら、おかしな物体が空中に漂っていた。かなり大きい。よく見ると飛行船のようだ。下の方に操舵室が付いていて、手を振ると、あちらも手を振ってくれるかもしれない、と思える位の近さだ。はじめはアドバルーンかもしれないと思っていたが、ゆっくりではあるが動いている、またアドバルーンにしては紐に繋がっていない。楽しい気分にはなったが、別に驚きはしなかった。
今日調べてみたら、保険会社の宣伝のための飛行船だったことがわかった。
You Tube & You Tube & You Tube :
こういう飛行船もちゃんとフライトプランを提出して飛行しているのだろうか?こんな低空飛行なら、お墓の上ならまだしも、高層ビル街に行くと、ぶつかりはしないか?強風にはどういう対策をとっているのだろうか?胴体からして、小回りが利きそうには見えない。しかし形が愛くるしくて、見ていて楽しい。ドラエモンの世界に入り込んだような気分がした。
近鉄百貨店はまだ改装中で、ものすごい高さになりそうだ。そしてその真ん前に、これもまた数えるのが面倒なくらいに高層のホテルが建っていた。以前は銀行、もっと以前には中華料理店が一階にあったビルが建っていたところだ。何が変わったかと言って、阿倍野橋界隈ほど、変化したところはないのではないだろうか?(否、梅田も変化している?)そう言えば、道が新しくできるとかで、お墓の区画整理もかなり進んでいた。うちのお墓は石原久之助さんのお墓と同じ区画の中にある。ほかに一基だけ区画外にはみ出している、先祖の女の人のお墓があった筈なのだが、それは区画整理でなくなっていた。どんな人かはしらない。多分出戻りでもしてきたのか、道ならぬ恋でもして、区画内には入れてもらえなかったのだろうか?思い出した。確か、おまきさん、という名前のかたのお墓だった。

ジルバを踊る

40数年前の京都の日仏学館のクリスマス・パーティーを思い出している。
ほかの人達と同じようにフロアーで踊っていたのだが、Joeが踊りながらステイジに上がろうとする。何の抵抗もなく私も一緒に踊りながらステイジに飛び上がる。みんな踊りをやめて私たちにたくさんの目が集中する。Joeは既にダンス・スクールで一通りダンスをマスターしている。私は基本が分かっていない。Joeが「ホイ」とか「ソレー」とか合図を送ってくれるので、それに合わせて踊っているだけだ。曲が終わりフロアーに戻るとものすごい拍手を頂いた。私はすでに息も絶え絶えだ。しかしよく楽しく踊れたものだと思う。

思い出した。5歳の私は父とジルバを踊っていたのだ。若い父とふたりで、曲はこの曲だったように思う。父の若い頃、日本中でダンスが爆発的に流行していたらしい。その昔母も父とダンスを踊っていたことがあるらしい。小さな私が女の子であることを思い出し、父はその時「踊ってみよう」とふと思ったのだろう。父と踊った機会は数えるくらいしかないが、今でもその時の父の顔を憶えている。物凄く鮮明に思い出す。私は楽しくて笑いながら踊っている。父は物凄く若い。私をくるくる回す。
そうだ、その記憶が身体のどこかに残っていたからこそ、あの時日仏学館のステイジでJoeとジルバが踊れたのだ。

父と踊ったジルバ、Joeと踊ったジルバ、私にはどちらも宝のような思い出だ。父もJoeもあの世から、私と踊ったジルバのことを思い出してくれているだろうか?
長く生きると、前を見続けるより、時に振り返る方がそして思い出に浸る方が遥かに楽しい時がある。「過去を振り返らず、常に未来を見つめて前を向いて生きる」という人生哲学を持っている人にしばしば出会う。チャレンジ精神は尊重したいがなんだか気の毒に思う。50を過ぎて60を過ぎて70を過ぎて80を過ぎて90を過ぎて、前を見続けたところで、はち切れんばかりの可能性が見いだせる訳ではない。過去に濃厚な時間がたくさんあれば、それを追憶するだけでも充分楽しい老後を過ごせるはずだ。考えてみれば、そのために人は、若い日々を精一杯に生きてきたのではないだろうか。

わたしの昭和史 少年篇 西尾幹二著 に触れながら

実は10年くらい前?図書館でもっと巨大でぎっしり字の詰まった類似本を手にしたことがある。中をペラペラと読んでその文字の量と質に圧倒され、こんなに頭のいい人に近づくのは10早いと思った。今回図書館で調べてもらったら、そんな本はないということだったので、わたしの昭和史 Ⅰ、Ⅱ、と2冊借りてきた。
今回この2冊を読んで、現在の西尾氏はあるべくしてここに至った方だと思った。
人間は決して個ではなく、父母がありそして分離し難い存在としての私がある、と書いておられた。確かにこの本はその実証そのものであると思った。紛れもなくこの父母あるゆえに現在がある。おそらく皆がそうなのだろうが、この飛びぬけた知の巨人は、運命的にある種の使命を持って特別な星の下に生まれたと言えるだろう。
この少年は家族だけでなく教師たちとも真剣に向き合っている。少年が向き合うというより、教師たちの方がこの少年に何かを感じて体当たりしてきているようにも思えるが、客観的に見てすでに格が違う。子供らしく素直なのだが、言葉をもって獲得している世界認識の水準が並みの大人では到底追いつけないレベルに達している。家族だけでなく教師や友達にも恵まれ少年らしくすくすくと発達していくのだけれど、幼くして「言語によって思考を構築し、それを自由自在に操り、独自の論理を組立て展開する能力」は、飛び抜けている。つまり洗脳や、洗脳されたものの譫言を跳ね除ける知性と言語能力を完成させているのだ。
私も西尾氏のように幼くして短詩形文学に親しみ、詩を書き詩集を出版し、小説を書き認められ出版され、さらに言語論も様々に書いてきたが、その早熟度においては比較にならない。

少年篇ー1、から私が特に注目した点をひとつに限定して取り出すとするとそれは、西尾秀太郎氏、即ちお父上がりんご箱に残された昭和7年発行の小冊子である。
「連盟の全権の強行態度に関して」、この内容は私がTel Quel Japonの核としている内容・主張とほぼ一致する。ので大変驚いた。私は松岡の頑張りと孤軍奮闘に一番心を動かされている、多分13才くらいから単身渡米し、ロサンゼルス大学の文学部と法学部を卒業して25才くらいで帰国したという祖父の姿を重ねているのかもしれない。本来外交官に必須の祖国への愛と誇りを持って対等に発言し、言をもって堂々と立つ心意気は、私は松岡にしか認めることが出来ないのだ。ハーバードの留学生たちは皆啓蒙され日本よりも米国の支配階級に身を近づけている。即ち屈しているのである。

少年篇ー2、に関して、やはり一点に限定して取り出すと「教師や学校との一騎討ち、と遠田イズムの結果としての学力の低下」である。
わたしの人生の中では学校や教師はほとんど意味をなさないので、そこが全く違っていて多少驚いた。
私の祖母は「教師が過大に尊敬される土地は、それだけ文化が低い。文化が高い土地では、教師の地位は逆に低い」という説を唱えていて、自分が焼け出され着の身着のままで辿りついたこの田舎(田舎の人は都会というが)にはデモシカしかいない筈だと常に言っていた。それゆえ生意気に聞こえるかもしれないが、自分を磨くために接するべき人間は身の回りにはいない、まして学校にはいないと考えていた。私が現実に足を置かずに、幼いうちから文学に関わっていたのは、そのへんに原因があるのかもしれない。それだけでなく私はひどい喘息の持病があり、実際ほとんど登校出来ず、言い換えれば常に現実を奪われており、結果いつ死んでもおかしくない子供時代を過ごした。中学一年生の時には出席が完全に不足して、見通しが立たず「医師看護婦が常駐する寄宿舎付きの養護学校」送りとなった。そこを一年で逃げ出してくるのであるが、こんな状態なので公立中学に戻ってきた時には目も当てられない席次だった。祖母は一番でもビリでもこんな田舎の学校では何の違いもない、席次などで教師に評価されることを屈辱と思え、と教えた。学校などいかほどのものか。自分の価値は自分で作り出せと言った。そのくせ、どこの大学にはどんな教授がいて、その大学のランキングはどの程度で云々に関しては、驚異的な情報を持っていた。
私は20歳まで生きまいと医者などにも言われていたので、期待もなく絶望もなく、この世に執着もなく生きた。ただこの祖母は私の中に何を見出せば、評価してくれるのだろうか、とは考えた。ましてや女の子である。知に偏らず、出世などは論外、格闘家になるわけにもいかず...。その結果「どうせ死ぬのなら美しく死のう。愛ゆえに誰かと心中しよう。ロマンチックな情死がいい」が私の人生における夢となり目的となった。西尾幹二氏が男として立ち上がり決然として自分の人生を歩み始められる年齢と同じ年齢における、これが恥ずかしくも私の姿であった。祖母は私が20歳の頃にこの世を去った。私は20歳を過ぎてもまだ死ななかった。


近所の図書館で

近所の図書館をうろついていたら、昔の文学仲間の単行本が目に入った。2011年9月1日編集工房ノア発行「その日の久坂葉子」。今別のblogで「ニコンの慰安婦写真展覧会」の命令と抗告と棄却について書いている最中なのだが、なんとその本の中に『従軍慰安婦「故郷の春」覚書』という項目があり吃驚した。昭和62年初出の文章に3年前と書いてあるから昭和59年(1984年)の出来事だろう。東京からプロデューサーと舞台女優がやってきて彼女に「従軍慰安婦」をテーマに脚本を書いて欲しいという依頼が来たという。公演は8月、場所は下北沢駅前劇場。ひどく体を壊してペンが握れず、知人に紹介された脚本家に代わってもらったが、日数の関係で劇団とも不本意なトラブルとなり結局上演されなかったらしい。そういう前フリがあって、その時の「覚書」が掲載されていた。参考資料として「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(金一勉著)と「従軍慰安婦」(千田夏光著)が挙げられている。つまりこの2冊を資料として「覚書」まで書いたということなのだが、この話はボツになって良かったと思う。従軍慰安婦を他人が書いた本でしか知らない者が脚本など書くべきではない。特に政治がらみの問題は、事実検証の必要もあるし、一生ついてまわるので、脚本家あるいは作家としての立ち位置も固定され、自由もなくしてしまう危険がある。勿論信念を持って自らの主張を貫くなら話は別であるが、1冊や2冊の読書でストーリをでっち上げてはアイリス・チャンの二の舞である。
図書館でこの本を手にしたときはかなりショックだったが、今日読むと結局没になった話だということで、安心した。彼女は文学者に多い昔からの共産主義者であったが「ひどく体を壊してペンが握れなかった」のは、戦争を体験した日本人としての、かつペンを握る書き手としての、本能的良心ではなかったかと思う。

参照;清水一憲 矛盾する吉見理論の正体

伝言:「久坂葉子」も面白かったけれど、やはり神戸三宮の「MAKO」の雰囲気が楽しめた一冊でした。「臨死期に至った思いが深くなった」という柏木さん、弱音を吐かずに神戸三宮の仲間たちとその時代を、あなたのペンで切り取って、証言していってください。これからもお元気で。

冷蔵庫を買う

丸3年冷蔵庫のない夏を過ごした。冷蔵庫の無いことが体操の仲間たちにいつの間にか知れ渡ってしまった。先月の初め、何人かに取り囲まれて「冷蔵庫を買いなさい」のリンチ?を受けた。何故買わないかと理由を聞かれ「音がうるさい」と言ったら「いまどきの冷蔵庫は音なんかしない」と。「小さな冷蔵庫なら、値段もいくらもしない」「買い物に行く回数が減る」「冷蔵庫のない生活なんて、考えられない」「いいから早く買いなさい」...言わせておけば言いたい放題である。こういうことのあと、言うことを聞かないと、ハラスメントはエスカレートするのだろう。自分が正しいと確信し親切のつもりだから、従うのが最高の選択となる。
冷蔵庫が便利なのはよくわかる。しかし、やはりあのモーター音が嫌なのだ。それと、市場やスーパー、食堂、レストランが近所にいくらでもある。散歩にもならない距離で、ほとんどすべての買い物は完了する。食べるだけ買い、食べるだけつくれば、食べ物を腐らせることもない。節電にもなる。冷たい飲み物は裏の薬局に行けば、いつでも飲める、あそこを自分の冷蔵庫だと思えばよい。それくらいの距離だ。しかしあの日から、そういうわけにもいかなくなった。
近所の家にお邪魔した時、冷蔵庫をそれとなく見るようになった。たしかに音がしない。音がしなければ、前から買うつもりだった。あちこち見たがみんな音がしない。それで買うことに決めた。裏の薬局が突然つぶれたのも動機の一つだ。
友達のKが難波のyamada電気に付き合ってくれるという。彼女は去年家に来た時、あまりに熱くて、冷えた飲み物もなく、文句たらたらで帰った経験があるので、彼女も「冷蔵庫を買え」派のひとりである。最近は家電を買うにも知識がいる。いろいろ質問する。私は慎重派なので、パッパとは決断しない。ついてきたKがイライラする。「早く決めろ」と言う。私はモーター音にこだわっていたのだ。ひとり暮らしなので、昔使っていた物よりも小さな、137Lの冷蔵庫を買うことにした。
翌日配達されてきた。五月蠅いではないか!これでは、楽しい朝食は望めない。しかも熱い。メーカーの人が来たので、交渉して結局買い替えることにした。Kと待ち合わせて再び難波まで出かける。
その前にいろいろ調べてみた。そしてyamada電気でもまたいろいろ質問して確認した。こういうことだ。近所の家の冷蔵庫がみんな静音だったのは、巨大だったからだ。つまり冷蔵庫は巨大なものでなければ、音はうるさい。14デシベルが最も静音なのだが、14デシベルを探すと、巨大なものに限定される。エコ節電対策も巨大なものが、一番効率がいい、電気代はむしろ安い。騒音と節電を考えると、巨大なものを買うしかない。但し、お値段は倍になる。思案のしどころである。先にも書いたように、スーパーや市場が近所にたくさんあるので、大きな冷蔵庫の必要はない。Kは冷凍食品を買いだめすればいい、と言ったが、私は冷凍食品を解凍して食べる趣味はない。ただ静かで節電機能をもつものは400Lを超えるものしかない。前の冷蔵庫は137Lで23デシベルだった。予算を考えに入れると、自ずから妥協の必要が出てくるだけで、選択の余地はない。結局335L,167.8cm,18デシベルの冷蔵庫を、前回とは倍以上の金額で買うことになった。翌日配達されてきた。確かに少し騒音は軽減している、5デシベル分だ。我慢は出来ないことはない。しかし皆さんの家の冷蔵庫のように、静かではない。それに横面と上面からの放熱も部屋の温度を上げてしまう。これで手を打ったのだから仕方がない。
今回の最大の発見は、ひとり暮らしであろうと、二人暮らしであろうと、最近の日本のそう広くはない家庭にある平均的冷蔵庫は、そのほとんどが巨大だということだ。友人・知人に電話して聞いてもみたが、例外なく520Lから620Lくらいの巨大な冷蔵庫をお持ちだ。冷蔵庫は長く使うものだから、お値段云々よりも、節電を考えると、そういう結果に行き着いたのだろう。節電節電、エコエコと大騒ぎさせて、メーカーの巨大冷蔵庫販売作戦が勝利した結果だろう。あるいは高齢化で足腰が弱った結果、なるべく買い物に行きたくないという深層心理が芽生え、狭い日本の台所に巨大冷蔵庫を次々と設置させているのかもしれない

«  | HOME |  »

2017-08

  • «
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • »

MONTHLY

CATEGORIES

RECENT ENTRIES

RECENT COMMENTS

RECENT TRACKBACKS

APPENDIX

Bruxelles

Bruxelles

FC2ブログへようこそ!

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。